初恋はよって件の如し
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「……ねぇ少年? そこにいては転んでしまうよ? あぁ、ほら……。大丈夫かい?」
僕の初恋は年上の、たぶん年上の女性だった。
その女性との出会いはとても奇妙で、奇天烈で、忘れられないものであった。
なにせその女性は……何やら怪し気な地下牢に閉じ込められていたのだから。
友達が投げてしまったボールを探しに迷い込んだ他人の家の裏庭。
表から見える屋敷の雰囲気とは裏腹に、手入れのされない草が傍若無人にはびこるその場所は、当時子どもだった僕の足を竦ませるには十分だった。
だけど、友達によってここに隠されたボールは、僕にとって大事な物だったから……。
膝の上程までに伸びた草を掻き分けて、僕はただひたすらにボールを探し続けた。
そうしてようやく叢の影にボールを見つけた時には、ずいぶんと屋敷に近づいていたのだった。
その屋敷はとても大きくて、そして恐ろしい噂に溢れていた。
なんでももともとこの地域の地主のような立場だった人の一族が住んでいるとか。
先々代の時に一度落ちぶれたが、先代になって急に持ち直したとか。
それがまるで未来を視ているように市場を読み取り、財を成していったとか。
その財で築いた屋敷には座敷牢があり、そこから夜な夜な女性の悲鳴が聞こえるとか。
屋敷の周りでは時折行方不明者が出るとか……。
それが事実かどうかを探るため、屋敷に忍び込んだ人は誰一人帰ってこなかったとか……。
そんな恐ろしい噂に塗れた屋敷でもあった。
そんな屋敷は僕らみたいなガキンチョにとってはいい遊び場で。
度胸試しで屋敷に近づいたりとかそりゃもう色々。
僕のボールが投げ込まれたのだって、本人たちは僕の度胸試しだったのかもしれないけれど……。
僕にとってはいい迷惑で、普通にいじめだし、屋敷の人にとってもいい迷惑だろう。
だから屋敷の人に見つからないように、細心の注意を払ってボールを回収するために動いていた。
はずなのに……。
「……ねぇ少年? そこにいては転んでしまうよ? あぁ、ほら……。大丈夫かい?」
「ひっ?!」
ずいぶんと低い位置から聞こえてきた囁き声に、僕は驚きのあまり足元にあった石に躓いてしまう。
どさりとしりもちをついて、痛みに目を眇めながら声の方を見ると……。
彼女がいた。
「……ひぃ……っ!」
しりもちをついたままずりずりと後ずさる。
だってそんなところから人の顔が覗いてるなんて思ってもみなかったから。
地面すれすれにぽっかりと空いた小さな窓にはしっかりとした格子がはまっていて、換気用だろうことが窺える。
そこから垣間見える白い顔は、この世の物とは思えないほどに美しかった。
大人が見れば感嘆の言葉が溢れ出したであろうその美しさは、子供だった僕にとっては畏怖すら感じるもので。
カチカチと歯の鳴る音だけが、なんとか僕の意識を繋ぎ止めていた。
「あぁ、転んでしまった。先を歪めることはほんとうに難しい……。怪我はないかい? たぶんないと思うのだが……」
彼女の物言いに、恐怖一辺倒だった思考がわずかにズレる。
「あ……の……だれ?」
恐怖を抑え込んでまで口にした言葉は、どこまでも陳腐だった。
「あぁ、すまないね。わたしはここにいるものだ。ずっとずぅっとな……」
黒目がちの目を眇めてそういう彼女を見つめていると、不思議と心が凪いでいく。
「そう……なんだ……。……さみしくないの?」
気が付けばそう聞いていた。
どうして彼女がそこにいるのか、何一つ知らないままに。
きっとその時から、ううん、初めてあの真っ黒な瞳を見た時から、彼女に心を奪われていたんだ。
「さて……どうだろうねぇ」
誤魔化すような、こちらを翻弄するような言葉に、僕はごくりと息を呑んだ。
そしてその日から……。
僕は自らの意思でお屋敷に忍びこむようになったのだった。
◇ ◇ ◇
「ねぇ? お姉さんはどうしてそこにいるの?」
今日も今日とて僕はお屋敷に忍び込む。
目的はもちろんあの人。
最近は夢に出てくるほどにあの人のことが気になって堪らない。
その感情がなんなのか、どこから来るのかわからないままに、僕は頑丈な格子越しに彼女へ話しかける。
「ん? そうさの。わたしはここでしか生きられない……からかな。最近は食事も満足に取れなくてなぁ。そろそろお役御免というところなんだろうね」
さみし気に笑う彼女が可哀想で仕方がない。
どうすれば……どうすれば彼女を解き放てるんだろう。
青空の下、彼女と語り合えるんだろう。
いつしか僕の脳内はそんなことでいっぱいになっていた。
そして転機は訪れる。
なにやらお屋敷の住人たちが慌ただし気に自動車へと荷物を詰め込んでいるのを遠くから見た時に、これはチャンスだと思った。
荷物を積み込み、自らを積み込んで去っていくお屋敷の住人達。
お屋敷から人の気配が消えたその瞬間、僕はこっそりとお屋敷へと忍び込んだ。
何故か一つだけ鍵のかかってなかった窓から忍び込み、静まり返ったお屋敷の中を歩く。
家鳴りの音に肩を震わせながら、僕は彼女の元へと続く道を探した。
そしてそれはあっさりと見つかる。
地下へと続く階段。
それはずいぶんと長くて、まるで地の底に続いているようで。
だけど彼女のことを思えば、勇気はいくらでも湧いてきた。
彼女を救う勇者。
それが道化でしかないと僕が気付いた時には……僕は地下牢の扉を開け彼女のすぐ近くに迫っていた。
薄暗くてかび臭い地下牢。
その真ん中に蹲る布の塊が彼女なんだろう。
……ずいぶんと布の塊が大きく見えるのは気のせいだろうか?
いつもは格子越しだから、彼女の顔しか見えないけれど。
そう言えば、と視線を巡らせて、見つける。
彼女との逢瀬の場である格子窓は、ずいぶんと上にあった。
まだ幼い僕では手も届かないようなはるか上。
まるで彼女みたいだなんて思いながら、僕は緩く上下する布の塊へと近づいた。
「……お姉さん?」
僕の声に布が僅かに揺れた。
そしてひょこりと顔を出したのは、いつもと変わらぬ美しい顔。
「おや、少年。よく来たね」
いつもと変わらぬ口調なのに、いつもと違う距離にドキドキと心臓が跳ねる。
「お姉さん。一緒に外に出よう? 僕がお腹いっぱい食べさせてあげるから……」
幼さゆえの無知はここでも遺憾なく発揮される。
本能が発する警告を無視して、奥へ奥へと歩みを進める。
お姉さんの身体を包んでるだけにしては妙に大きな布の塊に。
「ほぅ……。ならば……喰わせてもらおう」
「……え?」
ばさりと跳ね上げられた布。
隠されていたお姉さんの身体は……巨大な牛のものだった。
「……え?」
まるで初めて会った時のように無様にしりもちをつく僕。
そんな僕に迫る、牛の身体と女性の顔を持った……怪物。
あぁ、こんなに大きければあの高い場所にある格子窓にも顔が届くだろう。
そんなどうでもいいことを思った後に、僕の意識は闇へと呑まれていく。
これが……僕の……最初で最期の初恋だった……。
「……件様……。贄はお気に召していただけましたか?」
むせ返るような血の匂いに辟易しながら、この屋敷の主人は座敷牢の主へと声をかける。
ぴちゃぴちゃと石の床を濡らす真っ赤な液体を舐めていた怪物は……血潮に塗れた唇を僅かに歪めた。
「あぁ。久方ぶりの贄。旨かったぞ。さて……」
牛の身体を持った女の口からつらつらと言葉を吐き出す。
屋敷の主人はそれを書き留めながら満足げに頷いた。
「……よって件の如し」
格子窓から差し込む月の光に照らされた女の顔は、どこまでも美しくどこまでも残忍にどこまでも歪んでいたのだった。
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