第5話「悪役令嬢、護衛の瞳に映る熱に戸惑う」
襲撃事件の後、桜井ひかりはしばらく学園を休んだ。表向きは体調不良ということになっているが、隼人が裏で何かしたのは明らかだった。あの男たちをどうしたのか、ひかりにどんな警告をしたのか、私は怖くて聞けなかった。
ただ、学園に平穏が戻ったのは事実だ。ひかりの姿が見えないだけで、こんなにも空気が美味しいなんて。私は心置きなく「空気として過ごす」という目標にまい進できる。
『それにしても、隼人は一体何者なんだろう』
ただの護衛にしては、戦闘能力が高すぎる。それに、情報収集能力も尋常じゃない。私が欲しいと思ったものは、口に出す前になぜか用意されているし、私の行動パターンも完璧に把握されている。
先日も、私が無性に前世で好きだったB級グルメの焼きそばパンが食べたくなった。ため息をつきながら『あーあ、こっちの世界には、あんな庶民の食べ物はないんだろうな』と心の中でぼやいていたら、その日の夕食に「シェフが試作品を」と、完璧な焼きそばパンが食卓に並んだのだ。エスパーか。
さすがに少し怖くなってきた。彼は私の心を読めるのだろうか。
そんな疑問を抱えながら、私は公条院家の広大な図書室で、調べ物をしていた。もちろん、破滅フラグ回避のためだ。ゲームのシナリオを思い出し、これから起こりうるイベントをリストアップし、対策を練る。我ながら涙ぐましい努力である。
集中して資料を読み込んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げると、少し離れた場所に、隼人が彫像のように直立してこちらを見ていた。いつからそこにいたのだろう。まったく気づかなかった。
「……何か用、隼人?」
「いえ。お嬢様が熱心でいらっしゃいましたので」
彼は静かに近づいてくると、私が読んでいた資料を覗き込んだ。それは一条院家が関わる事業のリストだった。
「一条院家に、何か?」
「別に。婚約者の家のことくらい、知っておくのは当然でしょう?」
私は慌てて資料を閉じた。婚約破棄された時のために、蓮の弱みを握っておこうとしているなんて、口が裂けても言えない。
「さようでございますか」
隼人はそれ以上何も聞かず、私の隣に立った。彼がそばにいると、不思議と集中できる。静かな彼の存在が、心地よいBGMのようだ。
しばらく無言の時間が流れる。その沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「お嬢様は、変わられましたね」
「え?」
唐突な言葉に、私は彼を見上げた。
「以前のお嬢様は、このような場所にはほとんどお越しになりませんでした」
『以前のお嬢様』、つまり、本当の公条院玲奈のことだ。私の心臓が、どきりと跳ねる。
「……人は変わるものですわ」
なんとか取り繕うように、私はそう答えた。
「はい。今のお嬢様は……」
彼はそこで言葉を切ると、じっと私の目を見つめた。その黒い瞳の奥に、今まで見たことのないような、深い、深い感情が渦巻いているのが見えた。それはまるで、長年探し求めていた宝物を、ようやく見つけたかのような、そんな熱を帯びた色だった。
「……とても、お優しい」
そう言って、彼は私の頬にそっと触れようと手を伸ばした。その指先が私の肌に触れる寸前、彼ははっとしたように手を引っ込めた。
「……失礼いたしました」
彼は深く頭を下げ、私から数歩距離を取る。
私は何も言えなかった。彼の指が触れそうになった頬が、燃えるように熱い。心臓が、早鐘のように鳴り響いている。
今の、あれは、何だったのだろう。
彼の瞳に映っていたのは、忠誠心だけではなかった。もっと個人的で、もっと切実な、何か。
それ以来、私は隼人のことを、今まで以上に意識するようになってしまった。
彼が近くにいるだけで緊張するし、ふとした瞬間に視線が合うと、心臓が飛び出しそうになる。彼が他の使用人と話しているのを見るだけで、なぜか胸がもやもやする。
『これって、もしかして……』
いやいやいや、ありえない。彼はモブだ。私は悪役令嬢。恋愛フラグなんて立つはずがない。これはきっと、命を助けてもらったことによる、ただの吊り橋効果のようなものだ。そうに違いない。
私は自分にそう言い聞かせ、隼人への気持ちに蓋をしようとした。
だが、運命は、そんな私のささやかな抵抗をあざ笑うかのように、新たな試練を用意していた。
数日後、父に呼ばれて書斎へ行くと、そこには厳しい顔をした父と、なぜか神妙な面持ちの隼人がいた。
「玲奈。お前に話がある」
「はい、お父様」
「近々、一条院家との会食がある。蓮くんも来る。……分かっているな?」
父の言葉に、私はすべてを察した。パーティーでの一件や、その後の蓮の態度。両家の間でも、私たちの関係がうまくいっていないことは問題になっているのだろう。この会食は、関係修復のための最後のチャンス、というわけだ。
『まずい……! ここで関係修復なんかされたら、婚約破棄ルートが遠のいてしまう!』
なんとかして、この会食を失敗させなければ。
私がそんなことを考えていると、父は隼人に向き直った。
「隼人。会食の日も、玲奈のそばを離れるな。何があっても、玲奈を守るんだ」
「御意」
隼人は深くうなずいた。その横顔を見ながら、私は決意を固めた。
この会食は、私にとって大きな賭けになる。破滅を回避し、自由を手に入れるための、重要な一歩。
そして、その重要な局面で、私の隣にいるのは、婚約者の蓮ではなく、この忠実な護衛なのだ。
彼の瞳に宿る熱の意味を、私はまだ知らない。知りたくないような、知りたいような、複雑な気持ちを抱えたまま、私は運命の会食の日を迎えることになった。




