第4話「悪役令嬢、ヒロインの殺意に気づかないふりをする」
婚約者の蓮から完全に無視されるようになって、私の学園生活は驚くほど平穏になった。ひかりも、パーティーの一件以来、表立った嫌がらせはしてこない。彼女は今、蓮をはじめとする攻略対象たちからの好感度回復に必死なようだ。良いことだ。ぜひそちらに集中して、私のことは綺麗さっぱり忘れてほしい。
『空気のように過ごす、という当初の目標が、ようやく達成されつつある……?』
まあ、取り巻き令嬢たちに「玲奈様、次はいつ桜井さんを懲らしめてくださるのですか?」とキラキラした目で見られるのは相変わらずだが、それも適当に受け流せるようになってきた。
そんなある日の昼休み。私は中庭のベンチで、隼人が淹れてくれたカモミールティーを飲みながら読書をしていた。穏やかな日差しと、花の香り。完璧な午後のひとときだ。
しかし、その平穏は、一人の人物の登場によってあっけなく破られた。
「公条院様、少しよろしいでしょうか」
声の主は、桜井ひかりだった。彼女は一人で、いつものようなか弱さはどこへやら、妙に落ち着いた表情で私の前に立っていた。
『うわ、来たよ……。面倒くさいのが』
私は内心で舌打ちしつつも、優雅に本を閉じた。
「何かしら、桜井さん。私に何か用?」
「はい。少し、二人きりでお話がしたくて」
彼女はそう言うと、私の隣に控えていた隼人にちらりと視線を送った。
「その方も、席を外していただけると嬉しいのですが」
隼人はぴくりとも動かない。彼の視線はひかりを通り越し、何かを探るように周囲の茂みに向けられている。
私はため息をついた。
「隼人は私の護衛ですわ。私から離れることはありません」
「……そうですか。では、仕方ありませんね」
ひかりはあっさりと引き下がると、私の隣に腰を下ろした。近すぎる。なんなんだ、この女は。
「公条院様は、どうして私の邪魔ばかりするんですか?」
開口一番、彼女は単刀直入に切り込んできた。
「邪魔? 心当たりがありませんわね」
「とぼけないでください! 蓮様は私のものになるはずだったのに! あなたが余計なことをするから……!」
彼女の瞳に、嫉妬と憎悪の炎が燃え盛っているのが見えた。
『いや、だから私は何もしてないんだって! むしろ蓮くんは君にぞっこんだから、安心しなさいよ!』
そう叫びたいのをぐっとこらえる。
「あなたが何を言っているのか、さっぱりわかりませんわ。それに、一条院家の跡取りである蓮様が、あなたのような平民を選ぶとでもお思い?」
これはゲームの玲奈なら絶対に言うセリフだ。悪役令嬢としての役目は、きっちり果たしておかないと。
私の言葉に、ひかりの顔が怒りで歪んだ。
「……っ! 絶対に、絶対にあなたから蓮様を奪ってみせますから! 覚えてなさい!」
捨て台詞を残して、彼女は足早に去っていった。
ふう、と息を吐く。嵐のような女だ。
私が再び本に目を落とそうとした、その時。
「お嬢様、お下がりください」
隼人の鋭い声が響いた。彼が私の腕を掴み、強く引く。ほとんど同時に、私の座っていたベンチのすぐ後ろの植え込みから、数人の男たちが飛び出してきた。手には金属バットのようなものを持っている。
『え、え、何事!?』
突然の出来事に、頭が真っ白になる。男たちは、明らかに私を狙っていた。
隼人は私を背後にかばい、男たちと対峙する。彼は武器を持っていない。なのに、その体からは、まるで鞘から抜かれた刃のような、鋭い殺気が放たれていた。
「……誰の差し金だ」
隼人の地をはうような低い声に、男たちが一瞬ひるむ。
「うるせえ! そこの女を痛い目にあわせりゃいいんだろ!」
リーダー格の男が叫び、仲間と共に襲いかかってきた。
しかし、次の瞬間、信じられない光景が私の目の前で繰り広げられた。
隼人は、まるで舞うように男たちの攻撃をかわし、的確に関節を捉え、急所を打ち抜いていく。悲鳴を上げる暇もなく、屈強な男たちが次々と地面に倒れ伏していく。それはもはや、戦闘というより、一方的な蹂躙と呼ぶべき光景だった。
わずか数十秒。全ての男たちが、地面にうずくまって動けなくなっていた。
隼人は乱れた服装を直し、何事もなかったかのように私の元へ戻ってきた。
「お怪我はございませんか、お嬢様」
「え、ええ……。大丈夫……」
私は呆然としながら、うなずくことしかできなかった。強すぎる。私の護衛、強すぎる。
隼人は倒れている男たちを一瞥すると、冷たく言い放った。
「桜井ひかりに伝えろ。次はない、と」
『……え?』
今、なんて言った?
桜井ひかり? つまり、この男たちは彼女が差し向けたということ?
確かに、さっきの彼女の様子は妙だった。二人きりで話がしたいと言ったのも、隼人を私から引き離すため。そして、あの捨て台詞は、この襲撃の合図だったのか。
ヒロインが、悪役令嬢を物理的に排除しようとするなんて、そんな展開、ゲームにはなかった!
『殺意高すぎでしょ、あのヒロイン!』
背筋がぞっとする。もし隼人がいなかったら、私は今頃……。
「隼人、あなた、どうしてわかったの?」
「あの女が近づいてきた時から、周囲に複数の気配がありました。おそらく、お嬢様を傷つけ、その罪を俺になすりつけるつもりだったのでしょう」
淡々と語る彼の言葉に、私はさらに恐怖を覚えた。ひかりの計画は、私が思っていたよりもずっと悪質で、巧妙だったのだ。
「……ありがとう。また、助けてもらったわね」
「当然のことをしたまでです」
彼はそう言うと、私の肩にそっと自分の上着をかけた。恐怖で震えていることに、自分でも気づいていなかった。
彼の体温が残る上着が、じんわりと私を温める。その温かさに、少しだけ強張っていた体がほぐれていくのを感じた。
ふと彼を見上げると、その黒い瞳が、獲物を見据える獣のように、鋭く光っていた。
その瞳は、私を傷つけようとした者たちへの、容赦のない怒りに満ちていた。そして、その奥には、私に対する、何かどろりとした、暗い独占欲のようなものが渦巻いているように見えた。
私はその視線から、なぜか目を離すことができなかった。




