第3話「悪役令嬢、婚約者との距離に歓喜する」
パーティーでの一件は、瞬く間に学園中の噂となった。桜井ひかりの自作自演と、私を守った黒瀬隼人の忠誠心。そして、そんな状況でも動じなかった私、公条院玲奈の完璧な令嬢っぷり。もちろん、すべては周囲の壮大な勘違いなのだが、もはや訂正する気力もなかった。
『もうどうにでもなれ……』
おかげで、ひかりはすっかり孤立していた。今まで彼女に同情していた男子生徒たちも、手のひらを返したように冷たい視線を送っている。自業自得とはいえ、少しだけ気の毒に思う。いや、ほんの少しだけだ。
そして、最も大きな変化があったのは、婚約者である一条院蓮との関係だった。
あの日以来、彼は私を避けるようになった。廊下で会っても目を合わせず、挨拶すらしない。パーティーでひかりの肩を持った自分が恥ずかしいのか、それとも私に何か言われるのが怖いのか。どちらにせよ、私にとっては好都合だ。
『よしよし、いい傾向だ! どんどん離れてくれ!』
ゲームのシナリオ通りなら、ここから蓮はひかりを慰め、二人の距離は急速に縮まっていくはず。そして私への嫌悪感を募らせ、卒業パーティーでの婚約破棄へとつながるのだ。私の破滅回避計画は、ある意味、順調に進んでいると言えるだろう。
今日もラウンジで、蓮がひかりを励ましている場面に遭遇した。
「大丈夫だよ、ひかり。君は何も悪くない。悪いのは、君を追い詰めた玲奈の方だ」
「蓮様……。でも、私がもっとしっかりしていれば……」
「違う! 君は優しすぎるんだ。あんな冷たい女のことなんて、もう気にしなくていい」
聞こえてますよー、と内心でツッコミを入れる。冷たい女で結構。どんどん私の悪口を言って、もっと私を嫌ってほしい。そうすれば、私は円満に婚約破棄され、自由の身になれるのだから。
私は二人に気づかれないよう、そっとその場を離れた。足取りは軽い。鼻歌でも歌いたい気分だ。
そんなご機嫌な私の後ろから、いつものように静かな足音がついてくる。
「お嬢様。何か良いことでもございましたか」
振り返ると、そこには無表情の隼人が立っていた。
「別に。いつも通りですわ」
私はすまし顔で答える。内心の喜びを、この男に見透かされるわけにはいかない。
「そうですか。ですが、先ほどから口元が緩んでおいでです」
「なっ!?」
思わず手で口元を覆う。まずい、完全に油断していた。
「……気のせいですわ。それより隼人、この前のスーツ、弁償させてちょうだい。クリーニング代も」
「必要ありません。あれは私の職務ですので」
彼は淡々と答える。彼の言う通り、私を守るのは彼の仕事だ。でも、私個人の気持ちとして、お礼がしたかった。
「でも……」
「お嬢様がお気になさることではございません。それよりも、お嬢様にお怪我がなかったこと。それが私にとって全てです」
まっすぐな瞳でそう言われて、私は言葉に詰まった。彼の瞳を見ていると、吸い込まれそうになる。いつも冷静で、感情の読めない彼が、時折見せるこの熱のこもった視線は何なのだろう。
ゲームでは名前すら出てこないモブキャラ。彼の背景なんて、何も知らない。公条院家に仕える、ただの護衛。それだけのはずなのに。
『……いや、考えすぎか』
彼は仕事に忠実なだけだ。私を「お嬢様」として守っているにすぎない。そう自分に言い聞かせ、私は彼から視線をそらした。
その日の帰り道。運転手付きの高級車の中で、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。隣には、彫像のように微動だにしない隼人が座っている。この気まずい沈黙に、なんだか落ち着かない。
「ねえ、隼人」
「はい、お嬢様」
「あなたはずっと、公条院家にいるの?」
ふと、そんな疑問が口をついて出た。
彼は少しだけ間を置いてから、静かに答えた。
「物心ついた頃から、この家で厄介になっております」
「え……?」
初めて聞く彼の身の上話に、私は驚いた。彼はてっきり、どこかの警備会社から派遣されているのだとばかり思っていた。
「私は孤児でした。先代の当主……お嬢様のお祖父様に拾われ、この家で育てていただきました。このご恩は、一生をかけてもお返しできるものではありません」
彼の声には、何の感情も乗っていなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけ。でも、その言葉の裏にある彼の人生の重みが、ずしりと私の心に響いた。
幼い頃から、ずっとこの家に。ずっと、玲奈のそばに。
ゲームの玲奈は、彼のそんな忠誠心を知っていたのだろうか。いや、あの傲慢な彼女のことだ。きっと、都合のいい駒くらいにしか思っていなかっただろう。
でも、私は違う。私は、彼の優しさに救われている。彼がそばにいてくれることが、この息の詰まるような世界での、唯一の心の支えになっている。
「……そう。大変だったのね」
私が絞り出した言葉は、あまりにもありきたりで、陳腐だった。もっと気の利いた言葉をかけてあげられたらいいのに。
すると、彼はふっと、本当にわずかに、口の端を上げたように見えた。
「いいえ。お嬢様にお仕えできることが、私の喜びですので」
その言葉は、私の胸の奥深くに、温かい灯りをともした。
蓮との距離が離れていくことに歓喜していたはずなのに。なぜだか今は、隣に座るこの護衛の存在が、何よりも大きく感じられていた。
この感情が何なのか、私にはまだわからなかった。ただ、彼のそばは、不思議と安心できる。今はそれだけで十分な気がした。




