第2話「悪役令嬢、ドレスを汚されずに感謝される」
初日の教科書事件以来、私はなぜだか周囲の令嬢たちから一目置かれる存在になってしまった。本来の公条院玲奈も学園の女王様的なポジションではあったが、今のそれは畏怖と尊敬が入り混じった、なんとも居心地の悪いものだ。
『どうしてこうなった……』
休み時間になるたびに、「玲奈様、次は何をなさるおつもりですの?」「桜井さんの次の手は、もうお見通しですのよね?」などと期待に満ちた瞳で尋ねられる。私はただ破滅フラグを回避したいだけなのに、なぜかヒロインの策略を打ち砕く軍師か何かだと思われているらしい。
もちろん、桜井ひかりからの風当たりは日に日に強くなっている。すれ違いざまにわざと肩をぶつけてきたり、小さな声で悪態をついてきたり。そのたびに私は持ち前のスルー能力を発揮し、空気のようにやり過ごす。すると、また取り巻きたちが「さすが玲奈様、小物相手には動じない」「格の違いを見せつけていらっしゃる」と勝手に感動してくれるのだから、もうお手上げだ。
そんな私の唯一の癒やしは、相変わらず影のように付き従う護衛、黒瀬隼人だった。私がため息をつけば絶妙なタイミングで好みのハーブティーを差し出し、少しでも眉間にしわを寄せれば「何か問題でも?」と低い声で尋ねてくる。彼は私が公条院玲奈ではないことに気づいているのだろうか。いや、そんなはずはない。でも、転生前のゲームの玲奈は、こんなにも彼に気を配られるような人間ではなかったはずだ。
ある日の放課後、近々開催される財閥主催のパーティーに着ていくドレスを選びに、馴染みの高級衣装店を訪れていた。もちろん隼人も一緒だ。
鏡の前で、店員が持ってきた深紅のドレスに袖を通す。肌の白さが際立つ美しいデザインだが、私の頭に浮かぶのはゲームの記憶だ。
『このドレス……!』
ゲームでは、玲奈がこのドレスを着てパーティーに参加し、ひかりにワインをこぼされて汚されるイベントが発生する。激怒した玲奈がひかりの頬を打ったことで、攻略対象たちの心証は最悪のものになるのだ。これも重要な破滅フラグの一つ。
「玲奈様、大変お似合いですわ」
店員の言葉に、私は内心で首をぶんぶんと横に振った。
『いやいや、これだけは絶対に着ない!』
「……趣味ではないわね。もっと落ち着いた色のものにしてちょうだい」
私がそう言うと、店員は少し驚いた顔をしたが、すぐにいくつかのドレスを持ってきた。私はその中から、ゲームには登場しなかった、夜空のような深い藍色のドレスを選んだ。これならフラグは立たないはずだ。
ドレス選びを終えて店を出ると、偶然にも婚約者の一条院蓮と、その隣に寄り添う桜井ひかりに遭遇した。最悪だ。
ひかりは私を見ると、わざとらしく蓮の腕にしがみついた。
「あっ、公条院様……。蓮様、どうしましょう、私、公条院様に失礼なことをしてしまわないか心配で……」
「大丈夫だよ、ひかり。僕が君を守るから」
蓮は優しい声でひかりにささやくと、私に向かって冷たい視線を投げかける。
「玲奈。君も、あまりひかりをいじめないでやってくれ。彼女は君と違って、か弱いんだからな」
『いじめてませんけど!? むしろ被害者はこっちなんですけど!?』
口から出かかった言葉をぐっと飲み込み、私は完璧な令嬢スマイルを浮かべた。
「ええ、蓮様。心得ておりますわ」
心にもない返事をすると、蓮はつまらなそうに鼻を鳴らしてひかりと共に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は大きくため息をついた。
『疲れた……。もう家に帰りたい』
その時、ずっと黙って隣に立っていた隼人が、静かに口を開いた。
「お嬢様。先ほどの深紅のドレス、大変お似合いでした」
「え?」
唐突な言葉に、私は思わず彼を見上げた。いつも無表情な彼の瞳が、ほんの少しだけ揺らいで見えたのは気のせいだろうか。
「……ありがとう。でも、私はあちらの藍色のドレスの方が好きよ」
「さようでございますか」
それきり会話は途切れた。けれど、彼の言葉はなぜか私の心にじんわりと温かく響いた。
そして、パーティー当日。
私は選んだ藍色のドレスを身にまとい、会場に足を踏み入れた。きらびやかなシャンデリア、優雅な音楽、着飾った紳士淑女たち。まさにゲームの世界そのものだ。
私は破滅フラグを避けるため、会場の隅でひたすら壁の花に徹することに決めた。しかし、そんな私のささやかな願いは、またしても打ち砕かれる。
桜井ひかりが、よりにもよってあの深紅のドレスを着て現れたのだ。
『うそでしょ!? なんであんたがそれを着てるのよ!』
ひかりは私が断ったドレスを、どこかから手に入れたらしい。蓮のエスコートで会場に入ってきた彼女は、まるで自分が主役だとでも言いたげな勝ち誇った笑みを浮かべていた。そして、まっすぐに私の元へやってくる。
彼女の手には、なみなみと注がれた赤ワインのグラス。まずい、展開が読めてきた。
「ごきげんよう、公条院様。そのドレス、とても素敵ですわね」
ひかりはそう言いながら、わざとらしく足をふらつかせ、私に向かって倒れかかってきた。グラスの中の赤ワインが、私めがけて飛んでくる。
『ああ、もう、やっぱりこうなるのね!』
私がぎゅっと目をつむった、その瞬間。
すっと前に出た黒い影が、私の体をかばうように覆った。ばしゃっ、という液体がこぼれる音。恐る恐る目を開けると、そこには隼人が立っていた。彼の背中、その上質なスーツが、真っ赤なワインで見るも無残に汚れている。
彼は私を汚させまいと、その身を盾にしてくれたのだ。
会場が、一瞬にして静まり返る。
「きゃっ、ご、ごめんなさい! 私、足がもつれて……」
ひかりが青ざめた顔で悲鳴を上げるが、もはや誰も彼女の言葉を信じないだろう。
隼人は汚れた上着を静かに脱ぐと、振り返って私に深く頭を下げた。
「お嬢様。お召し物、お守りできて光栄です」
その冷静な声に、私は我に返った。
「隼人……。あなた……」
私のために、ここまでしてくれるなんて。胸の奥が、じんと熱くなる。
周囲からは「さすが公条院様の護衛だ」「桜井さんの魂胆などお見通しか」「公条院様は、こんな時でも冷静でいらっしゃる」という称賛の声が聞こえてくる。
また勘違いされている。でも、今はそんなことどうでもよかった。
私はただ、まっすぐに隼人を見つめた。
「ありがとう、隼人」
私の心からの言葉に、彼の無表情な顔が、ほんのわずかに、本当にわずかに、和らいだように見えた。




