第10話「悪役令嬢、笑顔で婚約破棄を受け入れる」
運命の日、卒業パーティーの夜が来た。
会場である豪華ホテルのボールルームは、きらびやかなシャンデリアの光に照らされ、着飾った紳士淑女たちの談笑で満ちあふれていた。私は隼人が選んだ真紅のドレスを身にまとい、その中心に立っていた。
周囲から注がれる、羨望と、畏怖と、好奇の入り混じった視線が心地いい。悪役令嬢としての最後の舞台だ。存分に楽しませてもらおう。
私の隣には、いつも通り、黒瀬隼人が控えている。彼の存在が、私に絶対的な安心感を与えてくれた。
やがて、会場のざわめきが大きくなる。主役の登場だ。
一条院蓮が、エスコートするように桜井ひかりを伴って、会場に入ってきた。ひかりは、純白の、まるで天使のようなドレスを着ている。今日の日のために、蓮が用意したのだろう。彼女は少しやつれたように見えるが、その瞳には、私への確かな敵意と、勝利を確信したような光が宿っていた。
どうやら彼女は、まだ自分が崖っぷちにいることに気づいていないらしい。一条院家の当主から、何のお咎めもなかったのだろうか。それとも、蓮がすべてをうまく丸め込んだのか。どちらにせよ、愚かなことだ。
蓮とひかりは、まっすぐに私の元へやってきた。
会場中の注目が、私たち三人に集まる。音楽が止み、喧騒が嘘のように静まり返った。
いよいよ、ショーの始まりだ。
蓮は、ひかりの肩を抱き寄せると、私に向かって、軽蔑に満ちた視線を向けた。
「公条院玲奈。君との婚約は、今日この時をもって、破棄させてもらう!」
高らかに響き渡る、婚約破棄宣言。
会場が、どよめきに包まれる。ゲームのシナリオ通り。まさに、この瞬間を待っていた。
ひかりは、勝利の笑みを浮かべて、私を見下している。
周囲の人間も、誰もが、私が衝撃を受けて悲嘆にくれるだろうと思っていたはずだ。
しかし、私は。
「ええ、喜んでお受けいたしますわ」
にっこりと、満面の笑みでそう答えた。
「な……!?」
私の予想外の反応に、蓮もひかりも、そして周囲の観衆も、誰もが呆気にとられている。
私は優雅に一礼すると、隣に控えていた隼人に目配せした。
隼人はうなずくと、アタッシェケースから一枚の紙を取り出し、蓮に突きつけた。
「こちらは、慰謝料の請求書ですわ、蓮様」
私の言葉に、蓮は怪訝な顔でその紙を受け取った。そして、そこに書かれた内容を見て、顔色を変えた。
「な、なんだこれは……! 慰謝料が、五十億だと!? ふざけるな!」
「ふざけているのは、どちらかしら?」
私は扇子で口元を隠し、くすくすと笑った。
「その金額は、あなたがこれまで、公条院家の名前を利用して得た、不当な利益のほんの一部ですわ。ご不満かしら?」
「な……! 何を、言って……」
動揺する蓮の前に、私は決定的な証拠を突きつけた。隼人が用意した、分厚いファイル。
「ここには、あなたがこれまで行ってきた、数々の不正の証拠がすべて収められております。一条院コンツェルンの名を地に落とすには、十分すぎるほどの、ね」
ファイルが、ぱらぱらと床に散らばる。そこに記された生々しい不正の記録に、周囲から息をのむ音が聞こえた。
蓮は、顔面蒼白で立ち尽くしている。
「そ、そんな……。こんなもの、でっち上げだ!」
「あら、そうかしら?」
私がそう言った瞬間、会場の後方のドアが開き、数人の男たちが入ってきた。その中心にいたのは、一条院家の当主。蓮の父親だった。
彼の顔は、怒りと絶望で歪んでいた。
「……蓮。すべて、本当のことなのだな」
「ち、父さん! 違うんだ、これはこいつの罠で……!」
「黙れ!」
当主の怒声が、会場に響き渡る。彼は、もはや息子の言葉を信じてはいなかった。私の送った匿名のメッセージと証拠を受け、彼も独自に調査を進めていたのだ。そして、すべての裏付けが取れた上で、この場に現れた。
「一条院家の名に、泥を塗りおって……! 貴様のような息子は、もはや私の子ではない!」
すべては、私の描いた筋書き通りに進んでいく。
私は、絶望に打ちひしがれる蓮と、隣で何が起こったのかわからず、ただ震えているひかりを一瞥すると、踵を返した。
もう、この茶番に付き合う必要はない。
「お父様、帰りましょう。このような場所に、長居は無用ですわ」
私は、会場の隅で見守っていた父に声をかける。
父は、満足そうにうなずくと、私の肩を抱いた。
「ああ、行こう。玲奈。お前の勝ちだ」
私は隼人と共に、会場を後にする。背後で、蓮の父親の怒声と、ひかりの短い悲鳴が聞こえた気がしたが、もう振り返らなかった。
悪役令嬢の断罪劇は、こうして、悪役令嬢自身の完全勝利で幕を閉じた。
ホテルの外に出ると、ひんやりとした夜風が、興奮で火照った頬に心地よかった。
見上げると、空には満月が輝いていた。
「お見事でした、お嬢様」
隣を歩く隼人が、静かに言った。
「あなたのおかげよ、隼人」
「いいえ。すべては、お嬢様のお力です」
彼はそう言うと、私の手を取り、その甲にそっと口づけをした。
「お嬢様、これからは私が生涯お守りします。誰にも指一本触れさせません」
そう言って私を見上げる彼の瞳は、深く、暗い愛情に満ちていた。それは、少し怖いと感じるほどの、圧倒的な独占欲。
私は、その視線をまっすぐに受け止めて、微笑んだ。
「ええ。お願いね、私の騎士様」
この重すぎるほどの愛が、私のこれからの人生を、どのように彩っていくのだろう。
少し怖くて、でも、それ以上に、楽しみでもあった。
こうして、悪役令嬢公条院玲奈は、破滅を回避し、モブだったはずの忠実な護衛からの、歪で甘い愛情に満ちた、新たな人生を歩み始めるのだった。




