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RECOLORE  作者: 成村 礼子
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第1話 「タヌキとの出会い」




人間界の片隅で、

れこは静かに、ぎりぎりの毎日を生きていた。


大きな不幸があるわけじゃない。

でも、大きな希望もない。


朝はちゃんと来て、

夜もちゃんと来る。

その繰り返しの中で、

「今日を終わらせる」ことだけが目標になっていた。


頑張っていないわけじゃない。

ただ、力を入れる余白が、もう残っていなかった。


その日も、

れこは少し遅い時間に歩いていた。


帰る理由はある。

でも、急ぐ理由がなかった。


夜の空気は、少しだけ湿っていた。

昼間のざわめきが嘘みたいに消えて、

街は低い呼吸をしている。




スマホの画面を消し、

街灯の光を追うように歩く。

人の声は遠く、自分の足音だけがやけに大きい。


気づけば、見慣れない路地に入っていた。


「……こんなとこ、あったっけ」


狭くて、静かで、

風の音だけがやけに大きく聞こえる。


その奥に、

ぽつんと、小さな(ほこら)があった。


石は欠け、

縄は色あせ、

誰かに手入れされた様子はない。


それなのに、

“放置されている”感じがしなかった。



れこは、理由もなく胸がざわついて、

自然としゃがみこんでいた。


理由は分からない。

ただ、ここに来てしまった。


「……不思議」


指先で、そっと祠の縁に触れた瞬間――

ひんやりした風が吹いた。



一瞬、

空気が「裏返る」感覚。


音が遠のき、

世界が一拍遅れる。


そして。


ぽとっ。


軽い音とともに、

足元に、なにかが落ちた。


「……え?」


目を落とすと、

そこにいたのは――タヌキだった。


小さくて、丸くて、

毛並みは少し乱れているけれど、

どこか品のある目。


れこは、思わず息を止めた。


逃げない。

叫ばない。

スマホも取り出すこともなく。


ただ、じっと見た。



タヌも、動かなかった。


タヌの視界に映るのは、

人間界の夜。

人間。

れこ。



――違う。



最初に浮かんだのは、それだった。


人間界の人間は、

もっと速くて忙しなくて、

もっと鈍感で無関心で、

もっと怖い存在だと思っていた。


でも、この人は違う。


目が、静かだ。


どこか、

“限界の手前”で踏みとどまっている目をしている。



観察対象?

違う。


記録すべき存在?

それも違う。


胸の奥で、

説明できない引っかかりが生まれる。



――放っておけない。



理由は分からない。

理屈もない。



ただ、

この人を前にすると、

戻るべき場所を忘れそうになる感覚だけがあった。


タヌは、一歩だけ前に出た。


れこは、後ずさりしなかった。


代わりに、

少しだけ眉を下げて、言った。


「……寒くない?」


その一言で、

タヌの中の警戒が、すっとほどけた。


人間界で、

そんな言葉を向けられる想定はなかった。


タヌ:

「……」


声が出ない。


喉が、きゅっと詰まる。


それでも、

口は勝手に動いた。


タヌ:

「……きゅ」


小さくて、弱い音。


れこは一瞬きょとんとして、

それから、ほんの少し笑った。


「……鳴くんだ」


ゆっくり、

コートの前を開く。


「あったかいけど……来る?」


責任感でもない。

正義感でもない。


ただ、

一緒にいたい。


その感覚が、

そこに自然にあった。




タヌは、迷った。


里のこと。

役目。

戻るべき場所。


全部、頭をよぎった。


それでも――


一歩、踏み出した。


れこの胸元に近づくと、

人間の体温が、じんわり伝わる。


知らない匂い。

知らない世界。


なのに、

怖くない。


タヌ:

「……ここ……」


れこ:

「ん?」


タヌ:

「……あったかい……きゅ」


れこは何も聞き返さなかった。

ただ、そっとコートを閉じた。


その夜、

れこは一匹のタヌキを連れて帰った。


それは、

観察と記録のための出会いではない。


ただ、

放っておけない存在と、

一緒にいたい存在が出会っただけ。


――この小さな選択が、

二つの世界を静かに繋ぐことを、

まだ誰も知らなかった。

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