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生まれ変わってもスラムでした  作者: 灰原ノア
名前を書く編

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書けない欄

 紙の匂いが変わったのは、朝だった。


 いつもの乾いたインクと埃に、

 甘い蝋と、上質な革の匂いが混じっている。


(……表の紙だ)


 触る前から分かる。

 厚みがある。

 角が丸い。

 湿気で波打たないよう、妙にしつこく整えられた紙。


 机の上に置かれた封筒は、白いまま汚れていなかった。

 裏で動く紙は、すぐに角が欠ける。

 指の脂を吸って、黒ずむ。


 これは違う。


 ここに置かれるべきじゃない紙だ。


「……開けないの?」


 ミラが、壁際で腕を組んだまま言った。

 声はいつも通り低い。

 ただ、目だけが落ち着かない。


「開けた瞬間、戻れなくなる気がしてな」


 俺が言うと、ミラは小さく息を吐いた。


「もう戻れないよ」


 淡々と言うくせに、

 言い切ったあと、視線がわずかに揺れた。


(ああ、分かってる)


 分かっているから、手が遅れる。


 封蝋に爪を立てると、

 硬い感触が指先に返ってきた。

 割れた瞬間、微かな甘い匂いが強くなる。


 封を切る音は小さい。

 だが、部屋の空気が一段冷える。


 中身は一枚だけだった。


 文字がきれいだ。

 整いすぎている。


 行間。

 余白。

 印の位置。


 読みやすい紙ほど、だいたいろくなことが書いてない。


 俺は目を走らせる。


 照会。

 再確認。

 担当者記入の上、差し戻し。


(……差し戻し)


 何度も見た言葉のはずなのに、

 今日は意味が違う。


 裏の差し戻しは、

 処理が止まるだけだ。


 表の差し戻しは、

 誰かが責任を持つまで終わらない。


 俺は紙を机に置き、指で欄を叩いた。


 担当者名。


 そこだけ、空白で残されている。


 空けておけばいい。

 今まではそうだった。


 名前がなければ、責任も追えない。

 追えなければ、誰も困らない。


 そういう世界で生きてきた。


 だがこの紙は違う。


 空白が許されないようにできている。


(書け、ってことか)


 ミラが紙を覗き込む。


「……これ、空けたままだと通らない」


「だろうな」


「通らないと、どうなる?」


 問い方が、確認じゃない。

 すでに答えを持っている声だ。


 俺は、文面の端を指でなぞった。


 インクが乾いて、少し盛り上がっている。


「担当者不明で差し止め。

 代替担当を立てる。

 必要なら、処理基準に従って」


「……切る」


 ミラが言った。


 俺は頷く。


「そうだ。空白のままだと、別の誰かが書く」


 ミラは顔をしかめる。


「それ、最悪」


「俺が答えない限り、誰かが答える」


 無所属編で見た形。

 ただ、今度は裏じゃない。


 表だ。


 表のほうが、綺麗に殺す。

 紙に汚れを残さないやり方で。


(“切ったのは誰だ”の続きかよ)


 笑えない。


 俺は紙を持ち上げ、光に透かした。

 上質な紙ほど、透ける。

 中身が薄いからだ。


 だが薄い紙は、

 こちらの人生を薄くする。


「……理由は?」


 ミラが聞く。


「理由?」


「なんで今、これが来たの」


 俺は目を閉じて、思い出す。


 事故が事故でなくなった日。

 止まった流れ。

 探され始めた原因。


 紙が止まれば、

 人は責任の置き場を探す。


 責任の置き場に、

 空白は嫌われる。


「止めたからだ」


 俺が言うと、ミラは小さく頷いた。


「……一件止めただけで、ここまで来る」


「表は、止まるのが嫌いだ」


「裏も嫌いだったけどね」


「裏は怒る。表は整える」


 ミラが苦く笑った。


「整えるって、怖いね」


「だろ」


 俺は紙を机に戻し、

 担当者欄の空白を見つめた。


 たった数文字のスペース。

 それだけで、今までの生き方が否定される。


(書けば、表に出る)


(書かなければ、誰かが切られる)


 選択肢は、二つしかないように見える。


 だが、俺は知っている。


 この手の紙は、

 選択肢を二つに見せるのが上手い。


 書くか、切るか。


 どちらにしても、

 紙は先に進む。


 俺は指先を、ペンの軸に触れさせた。


 冷たい。


 握れば、書ける。

 書けば、名前が残る。

 残れば、追われる。


 追われるのは構わない。

 だが


(俺の名前が、また“前例”になる)


 それだけは避けたい。


 ミラが、静かに言った。


「今のままだと、

 あなたが書かなくても、あなたの名前が使われる」


 俺は、目を上げた。


「……分かってるのか?」


「帳簿は、そういうふうにできてる」


 ミラの声は低い。

 怒ってはいない。

 ただ、確信している。


「空白は、誰かの都合で埋まる」


 それは、優しい言い方だった。


 本当はもっと酷い。


 空白は、

 都合のいい嘘で埋まる。


 俺はペンを見つめる。


 このペンで書く文字は、

 誰かを救うかもしれない。


 同時に、

 俺を縛る鎖にもなる。


「……ねえ」


 ミラが、少しだけ声の温度を上げた。


「ここ、空けたままだと、もっと酷くなる」


 同じ言葉なのに、

 さっきより重く聞こえる。


 俺は息を吸い、吐いた。


 紙の匂いが、肺の奥に残る。


(……書けない欄、か)


 今まで、俺は空白で生きてきた。


 空白は、身軽だった。

 追われない。

 期待もされない。

 責任も来ない。


 だが空白は、

 守ってくれない。


 守るためには、

 埋めるしかない欄がある。


 俺はペンを手に取った。


 重さは、ない。

 だが指先が、少しだけ震える。


(これが、表に出るってことか)


 ミラは何も言わない。

 ただ、視線を外さない。


 俺はペン先を、空白の上に置いた。


 インクが染みる前の、ほんの一瞬。


 紙はまだ、真っ白で、無関係で、

 俺を縛っていない。


 その一瞬だけが、自由だった。


 そして俺は、

 その自由を手放す。


 書くために。


 書かなければ、

 誰かが先に切られるから。


 ペン先が、紙に沈む。


 この瞬間から、

 俺はもう無所属じゃない。


 名前が、

 紙の上に生まれる。


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