切ったのは誰だ
問いは、突然現れたわけではない。
ずっと、そこにあった。
ただ、聞かれなかっただけだ。
事故が事故として通らなくなった日から、
街の動きは、目に見えて変わった。
流れが遅くなった。
止まる箇所が増えた。
だが慎重になったわけじゃない。
考える時間が増えたわけでもない。
増えたのは、
責任を探す視線だった。
「これ、誰が判断した?」
その言葉が、
帳簿室でも、路地でも、商会の裏でも、
当たり前のように交わされるようになった。
書類が差し戻される。
印が押されない。
処理が詰まる。
詰まると、人は苛立つ。
苛立つと、原因を探す。
そして必ず、
同じ単語に辿り着く。
前例。
前例を作ったのは誰だ。
前例を使ったのは誰だ。
前例を止めたのは誰だ。
すべての矢印が、
少しずつ、しかし確実に、
一点に寄っていく。
俺は、薄暗い部屋で一人、椅子に腰掛けていた。
机の上には、紙がない。
帳簿も、処理書も、控えも。
何も置いていないのに、
机は重かった。
(……来るな)
予感は、裏切られない。
扉が叩かれた。
強くもなく、弱くもない。
確認のための音。
「少し、よろしいですか」
開けると、二人立っていた。
服の仕立てが違う。
靴の音が違う。
視線が、裏の人間のそれじゃない。
表だ。
主人公は黙って中へ通した。
椅子が引かれる音。
紙を広げる音。
聞き慣れたはずの音が、
今日はやけに大きく響く。
「最近、事故処理が滞っています」
一人が切り出す。
「原因は?」
主人公は、静かに聞き返した。
「前例が、機能しなくなった」
機能。
その言い方に、喉の奥が少しだけ乾く。
(人の話だぞ)
だが、訂正はしない。
ここでは、それが共通言語だ。
「誰が止めたんです」
視線が、まっすぐ向けられる。
逃げ道を作らない問い方。
俺は、答えない。
沈黙は、拒否じゃない。
ただの時間稼ぎだ。
「前例を作った人物について」
別の紙が出される。
「名前が、上がっています」
その一言で、空気が変わった。
まだ呼ばれてはいない。
だが、そこにある。
書かれていない名前。
(……集まったな)
責任が。
切ったのは誰か。
事故にしたのは誰か。
止めたのは誰か。
答えは、紙の上で一つにまとめられようとしている。
「無所属、ですよね」
確認するような口調。
「そうだ」
「所属がないのは、問題です」
主人公は、鼻で息を吐いた。
「今さらだな」
二人は、表情を変えない。
「今までは、問題ではありませんでした」
その続きが、
言われなくても分かる。
「……便利だったからか」
一人が、はっきり頷いた。
「ええ」
便利。
その言葉で、すべてが腑に落ちる。
無所属は、
責任を置かないための場所だった。
誰の判断でもない判断。
誰の命令でもない命令。
だから、使いやすかった。
だが今は違う。
事故が通らない。
前例が止まる。
誰かが、責任を引き受けなければならない。
「切ったのは、誰です」
再び、問われる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
(切ったのは、俺じゃない)
(だが、始めたのは、俺だ)
その違いは、
現場では重要でも、
書類の上では意味を持たない。
沈黙は、
否定にも肯定にも使われる。
「お答えいただけない場合」
一人が続ける。
「こちらで判断します」
「……どう判断する」
「前例に基づいて」
皮肉でも、冗談でもない。
俺は、一瞬だけ目を閉じた。
無所属でいる限り、
この問いは、何度でも繰り返される。
そして、
誰かが勝手に答えを書く。
それが一番、
取り返しがつかない。
扉の向こうで、足音が止まった。
ミラだ。
声は聞こえない。
だが、分かる。
(……聞いてるな)
主人公は、二人を見る。
「答えは、出せる」
二人の視線が、わずかに鋭くなる。
「だが」
一拍、置く。
「今じゃない」
それだけ言った。
二人は、すぐには反応しなかった。
だが、立ち上がる。
「近いうちに」
それは、脅しであり、
予告でもあった。
扉が閉まる。
静寂。
その直後、
別の空気が入ってくる。
「……ねえ」
ミラの声。
俺は、振り返らずに答えた。
「全部、聞いてたか」
「うん」
ミラは部屋に入らず、
扉のところに立ったままだ。
「もう、無所属じゃ無理ね」
「ああ」
否定しない。
「名前の話になる」
「なるな」
「避けられない」
短い沈黙。
「それでも」
ミラが続ける。
「今は、答えなくていい」
俺は、かすかに笑った。
「珍しいな」
「無所属の終わりを、
ちゃんと終わらせたいだけ」
正しい。
切ったのは誰だ、という問いは、
答えを求めているんじゃない。
名前を書く欄を埋めたいだけだ。
主人公は立ち上がる。
「無所属は、終わりだ」
「でも、次はまだ決めない」
ミラは、ゆっくり頷いた。
「それでいい」
外に出ると、夜の空気が冷たい。
人の声がする。
街は、変わらず動いている。
だが、流れは確実に変わった。
事故は、
もう逃げ道じゃない。
前例も、
盾にはならない。
残ったのは、
名前を書くかどうか。
無所属という時間は、
ここで終わる。
次に始まるのは
責任を引き受ける話だ。
俺は、夜の中を歩き出した。
まだ、名は名乗らない。
だが、
名を呼ばれる場所へ向かって。




