事故が事故でなくなる日
事故という言葉は、軽い。
理由を問わない。
過程を遡らない。
誰の判断かも、書かなくていい。
だから、便利だった。
ミラは、帳簿室の空気が変わったことに、すぐ気づいた。
紙の擦れる音は同じなのに、間が違う。
いつもより、少しだけ長い。
迷っている音だ。
「……これ」
机の向こうで、誰かが声を落とした。
「事故じゃ通らない」
その一言で、部屋が静かになる。
ミラはペンを置き、顔を上げた。
声の主は、いつもより慎重な顔をしている。
「理由は?」
聞き返すと、書類が差し出された。
見慣れた処理書。
見慣れない空白。
理由欄の下に、たった一行。
同一条件の確認、未了。
(……効いた)
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
喜びではない。
確認に近い感触。
「前例があるだろ」
別の机から声が上がる。
「前例でも、条件が揃ってない」
「今までは」
「今までは、だ」
言葉が、途中で切れる。
事故という言葉が、
ここではじめて、理由を求められている。
ミラは、書類を受け取り、ゆっくりと目を通す。
否定は書いていない。
反論もない。
ただ、決まっていないと書いてあるだけ。
(それだけで、止まる)
紙は、確定がないと前に進めない。
それを、皆が思い出した。
「……再確認を入れる」
誰かが言った。
その言葉に、
別の誰かが小さく舌打ちする。
面倒だ。
時間がかかる。
だが、事故で押し通すよりは、
正しい手続きだ。
ミラは、何も言わずに頷いた。
事故は、事故である条件が必要になった。
それだけで、この一件は勝ちだった。
数刻後。
路地の影で、伝える。
「……通らなかった?」
「うん」
ミラは短く答える。
「事故扱い、戻された」
「一件?」
「一件だけ」
主人公は、視線を落とす。
期待していなかったわけじゃない。
だが、分かっていた。
「十分だ」
「……十分?」
「止まる前例ができた」
前例は、通すためだけのものじゃない。
止めるためにも使える。
「現場は?」
「行く」
「再確認か」
「うん」
短い会話。
だが、今までと違う。
事故と書けば終わりだった流れに、
人が戻ってくる。
「でも……」
ミラは言葉を選ぶ。
「これ、目立つ」
「止まったからな」
俺は、淡々と答えた。
止まると、
理由を探される。
理由を探すと、
責任が浮かぶ。
「上が、動き始めてる」
ミラは懐から、別の紙を出す。
厚手で、白い。
事故処理では使われない書式。
「正式な照会」
主人公は一目見て、息を吐いた。
「早いな」
「止めたから」
止めたこと自体が、
問題になる。
それが、表の論理だ。
「名前は?」
「……まだ」
ミラは首を振る。
「でも、“誰がやった”かを探し始めてる」
探される側は、一人しかいない。
路地の向こうで、
誰かの視線を感じる。
直接じゃない。
確認するための視線。
(観測が始まった)
俺は、紙を折り畳む。
「小さく勝ったな」
「うん」
「代わりに、目立った」
否定しない。
これは、計算通りだ。
「これからは」
ミラが言う。
「“事故”って言葉だけじゃ、
済まされなくなる」
「面倒になる」
「責任が、戻る」
主人公は、路地の先を見る。
名前のない状態。
無所属。
それは、刃としては最適だった。
だが
事故が事故でなくなるなら。
(いずれ、書かされる)
その予感が、
重く、はっきりと胸に残る。
鐘が鳴った。
いつもと同じ時刻。
いつもと同じ音。
それなのに今日は、
終わりじゃなく、始まりに聞こえた。
小さな勝利。
確かな手応え。
そして、
次の火種。
無所属でいられる時間が、
確実に削れていく。




