前例を作った覚えはない
夜は、書類の音がよく響く。
昼間は人の気配に紛れる紙の擦れる音が、
夜になると、やけに輪郭を持つ。
俺は机に肘をつき、
古い帳簿を一冊、開いていた。
(……これも、前例扱いか)
日付は古い。
裏で仕事をしていた頃のものだ。
失敗の記録はない。
成功と処理完了だけが、簡潔に並んでいる。
その書き方に、覚えがあった。
(いや……覚えがある、じゃないな)
覚えがある“形”をしているだけだ。
俺はページを戻し、
理由欄を読み返す。
迅速。
最小損失。
追加判断不要。
(……この言葉、全部俺のだ)
正確には、
俺が現場で使った言葉を、
誰かが帳簿用に整えたもの。
あのときの俺は、
切るために言葉を選んだ。
迷いを断ち切るために、
判断を早めるために。
考えた末に、迷わず切る。
それが、迅速だった。
だが帳簿の中では、違う。
(考える前に、切れ)
そう読める。
俺は小さく息を吐いた。
(前例を作った覚えはある)
(でも、免罪符を作った覚えはない)
前例というのは、本来、
似た状況で“考える材料”にするものだ。
考えなくていい理由じゃない。
俺はページを閉じ、
椅子の背にもたれた。
天井の木目が、ぼんやりと視界に入る。
(……雑に使われてる)
それが一番、腹に来た。
自分の判断が、
他人の思考停止に使われている。
それも、
名前を消されて。
帳簿の中で、
俺は人じゃない。
ただの処理方法だ。
(そりゃ、真似もされる)
刃の持ち主がいなければ、
刃は誰のものでもない。
誰でも振れる。
だから
雑になる。
俺は立ち上がり、
棚から別の帳簿を引き抜いた。
失敗例。
処理が遅れた案件。
判断を保留した記録。
そこには、
今の帳簿にないものがあった。
書き直し。
追記。
余白。
(……あったな)
悩んだ痕。
迷った形。
それが、
全部削られている。
(都合が悪いんだろうな)
迷いは、
効率を下げる。
だから消される。
だが
(迷わない刃は、危険だ)
俺は帳簿を棚に戻した。
これ以上、確認する必要はない。
分かったことは一つだ。
俺は、
前例を作った。
だが、
今動いているのは、俺の刃じゃない。
俺の刃を、
使いやすく削った何かだ。
そしてそれは、
俺が黙っていれば、
正しい顔をして増え続ける。
(……切るか)
人じゃない。
流れをだ。
前例として残った部分だけを、
切り落とす。
俺は窓を開け、
夜の空気を吸い込んだ。
冷たい。
現場の匂いが、まだ混じっている。
(前例を壊す仕事か)
やりたくはない。
だが
(俺以外に、やる奴がいない)
それだけは、はっきりしていた。




