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生まれ変わってもスラムでした  作者: 灰原ノア
無所属編

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62/71

現場は数字を知らない

 現場は、帳簿の匂いがしなかった。


 代わりに鼻に刺さるのは、湿った土と腐りかけた木。

 古い油。

 そして、水に溶けた鉄の匂い。


(……事故、ね)


 ミラは路地の入口で足を止めた。

 石畳の隙間に黒い染みが残っている。

 洗った跡があるのに、落ちきっていない。


 数字は消せる。

 だが匂いは消えない。


 壁に沿って、布の切れ端が引っかかっている。

 端が裂けて、細い糸がほどけたまま。

 誰かが急いで引きずられたか、逃げながら引っ掛けたか。


(どっちにしても、“綺麗な事故”じゃない)


 ミラは膝を折り、指先で石畳の縁をなぞった。

 ぬるりとした感触が残る。


 乾いていない。

 最近だ。


 帳簿では、もう「処理済み」になっていた。

 終わった案件。

 問題はない、と書かれている案件。


(終わってない)


 終わっているのは紙の上だけだ。


 ミラは周囲に目を走らせた。

 路地は細い。

 逃げ道は二つ。

 だが片方は袋小路になっている。


 袋小路の壁に、浅い傷があった。

 刃物の跡。

 何本も、同じ高さで走っている。


(……焦ってる)


 熟練の切断なら、こうならない。

 必要な一線だけを引く。

 迷いの線は残らない。


 ここには、迷いがある。

 余計な線が多い。


(似せようとして、失敗してる)


 それが一番嫌な形だった。


 ミラは立ち上がり、袋小路の奥へ進む。

 足元に、転がった小さな木箱。

 角が割れ、内側が濡れている。


 鼻に、薬草の匂いが混じった。

 甘く、青臭い。

 乾かす前の匂い。


(禁制品じゃない……でも、近い)


 薬草に混ぜると、毒にも薬にもなる種類。

 扱うには許可が要るものだ。


 帳簿の一文が頭をよぎる。


 事故処理。


(便利ね)


 毒でも事故。

 失踪でも事故。

 都合が悪いものは全部、事故。


 ミラは壁際にしゃがみ、箱の割れ目を覗き込んだ。

 中に残っている粉が、湿って固まっている。


 指先に少し付け、鼻に近づけた。


(……これ)


 喉の奥が、わずかに苦くなる。


 ミラはすぐに指を払った。

 息を吐き、落ち着かせる。


(書類に書けない匂い)


 帳簿は匂いを扱わない。

 数字しか見ない。

 だから、現場の痛みは無視できる。


 足音が聞こえた。

 背後から、軽い足取り。


 振り返らなくても分かった。


「どうだ?」


 低い声。

 彼だ。


 ミラは立ち上がり、路地の奥を指さした。


「事故じゃない」


「分かってる」


 短いやり取り。

 それでも十分だった。


 ミラは壁の傷を示す。


「見て。刃が迷ってる」


 俺は一瞬だけ傷を見る。

 表情は変わらない。

 だが、視線が冷える。


「真似だな」


「真似るだけなら、まだ良かった」


 ミラは言葉を選ぶ。


「切り方が雑。残す線がない」


 俺は小さく息を吐いた。


「……俺のやり方じゃない」


「ええ。でも“あなたのやり方”って言い訳が通る形をしてる」


 言ったあとで、ミラは少しだけ眉を寄せた。


(嫌な言い方)


 でも、事実だ。


 俺は路地の先、袋小路を見たまま言う。


「死体は?」


「ない」


「帳簿は?」


「埋まってる」


 また、同じ言葉。

 同じズレ。


 俺が、割れた箱を覗き込む。


「これが事故?」


「事故って書けば事故になる」


 ミラはそう返して、自分の声が冷たすぎたことに気づく。


(……いや。冷たくていい)


 冷たくないと、この仕組みには勝てない。


 俺が箱から目を離し、ミラを見る。


「じゃあ、どこで事故になった」


 ミラは答える前に、帳簿のページを思い出す。


 事故処理・参考。

 前例に基づく。

 再確認不要。


 現場は、数字を知らない。

 でも、紙は現場を無視できる。


「書類の入口」


 ミラは言った。


「ここじゃない。ここに来る前に、事故にされた」


 彼は短く頷く。


「……紙を追う」


「私は、もう一つを追う」


「何を?」


 ミラは路地の出口へ視線を向けた。


「“いない人”」


 死体はない。

 でも、誰かがここにいた。


 布の切れ端が、まだ壁に引っかかっている。

 血の染みが、石の隙間に残っている。


 現場は嘘をつかない。


「戻る足跡がないなら、戻らなかった理由がある」


 ミラがそう言うと、俺は一拍置いて言った。


「……見つけても、紙は動かないぞ」


「分かってる」


 ミラは答えた。


「でも、紙を動かすには“人”が要る」


 帳簿には書けない匂い。

 書類に載らない痛み。


 それが無ければ、

 前例は止まらない。


 ミラは一度、路地を振り返る。

 狭い空。

 湿った石。

 消えきらない鉄の匂い。


(事故じゃない。事故にされた)


 その差は、紙の上では小さい。

 でも、現場では致命的だ。


「行くよ」


 彼が言った。


「どこへ」


「事故の一文が出た商会」


 ミラは小さく頷いた。


「……やっぱりね」


 現場は数字を知らない。

 だから、数字の側に戻って戦うしかない。


 ミラは歩き出しながら、心の中で整理する。


 噂。

 書類。

 前例。

 事故。


 そして

 名前のない処理。


(間に入らなければならない)


 それは使命じゃない。

 合理だ。


 放っておけば、紙が先に殺す。

 もう、それだけは分かっていた。


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