ミラが気づく
帳簿の匂いは、いつも同じだ。
乾いた紙。
インクのかすかな酸味。
指先に残る、古い紙のざらつき。
この匂いが嫌いな商会員は多い。
だがミラは違う。
嘘が混じると、匂いが変わるからだ。
商会の奥、昼でも薄暗い事務室。
窓は高く、外の喧騒は遠い。
机の上には帳簿が三冊、きっちりと並んでいる。
一冊目。
二冊目。
三冊目。
ミラは、同じ日付の行を指でなぞった。
(……揃いすぎ)
数字が、綺麗すぎる。
不正はもっと汚い。
誤魔化しは、必ずどこかでズレる。
だがこれは違う。
最初から、正しく見えるように作られている。
ミラは、帳簿を一段下げ、別の帳簿を開く。
同じ番号。
同じ処理理由。
そして、やはり
(名前が、ない)
項目はある。
番号もある。
日付も、承認印も揃っている。
それなのに、
誰の処理かだけが書いていない。
(書き忘れじゃない)
指が止まる。
一つだけなら、事故で済む。
二つなら、管理ミス。
三つ。
四つ。
(意図的)
名前を消している。
それも、後からじゃない。
最初から、書かない前提で。
ミラは、帳簿の端を軽く叩いた。
(これは……責任を消すやり方)
名前がなければ、
後から探せない。
問い詰められない。
つまり、切った後で
「誰が決めたのか」を聞けない。
「……これ」
無意識に声が漏れた。
隣で作業していた商会員が、顔を上げる。
「どうしました?」
「この処理基準、最近変わった?」
商会員は、少し考えてから肩をすくめる。
「前例ができたから」
(前例)
胸の奥で、何かが引っかかる。
「前例って、誰の?」
「さあ。裏のほうで仕事してた奴だろ」
軽い。
あまりにも軽い。
ミラは、それ以上聞かなかった。
聞いても、この人は答えを持っていない。
代わりに、頭の中で“やり方”をなぞる。
無駄がない。
最短距離。
必要な線だけを引く。
(……似てる)
だが、すぐに否定が浮かぶ。
(違う)
決定的に違う点がある。
(切らない基準が、ない)
彼のやり方は冷たい。
だが、無差別じゃない。
切る前に、必ず
「残す理由」を探す。
この帳簿には、それがない。
あるのは
切る理由だけ。
それも、便利な言葉で。
前例。
迅速。
再確認不要。
(雑すぎる)
ミラは帳簿を閉じ、椅子から立ち上がった。
床板が、静かに鳴る。
(本人の仕事じゃない)
確信だった。
噂が先に走り、
書類がそれを追いかけ、
現場は置き去りにされている。
そして、切る基準だけが独り歩きしている。
(このままだと……)
ミラは帳簿を抱え直す。
紙の重みが、腕に伝わる。
それは、数字の重さじゃない。
遅れてやってきた違和感の重さだ。
彼は、気づいているだろうか。
いや。
(気づいてる)
彼は、自分の刃が勝手に振るわれることを
一番嫌う。
だからこそ、
誰かが間に入らなければならない。
「……探そう」
声は小さかったが、迷いはなかった。
名前のない数字。
雑な切断。
噂と紙の暴走。
それらを一本に繋げられるのは、
“切るやつ”本人しかいない。
ミラは部屋を出る。
廊下の空気は、帳簿の部屋より少し暖かい。
(今なら、まだ間に合う)
そう思いながら、
彼女は歩き出した。




