書類が先に来る
紙の匂いは、血の匂いより遅れて鼻に残る。
インクと埃。
古い革表紙。
湿気を吸った紙が、わずかに甘く腐った匂い。
(……嫌な匂いだ)
部屋は静かだった。
人の気配はあるのに、声がない。
紙をめくる音だけが、一定の間隔で続いている。
俺は椅子に腰掛け、机の上に積まれた書類の束を見下ろしていた。
厚みはそれほどでもない。
だが、重さが違う。
(これ一束で、何人分だ?)
数字で言えば簡単だ。
だが、ここに書かれているのは、人の処理結果だった。
「確認、お願いします」
向かいの男が、事務的に言う。
視線は俺ではなく、紙の上。
俺は一枚目を手に取る。
指先が、紙の端で少しだけ擦れた。
内容は簡潔だった。
対象:処理済
理由:前例に基づく
備考:再確認不要
(前例、ね)
笑えない冗談だ。
前例を作った覚えはある。
だが、量産許可を出した覚えはない。
二枚目。
三枚目。
どれも似た文言。
名前はない。
番号だけが並んでいる。
(番号かよ)
名前がないということは、
存在しなかったということだ。
俺は紙を置き、男を見る。
「これ、誰が決めた?」
「既存の処理基準です」
即答だった。
考える余地すらない。
「基準、ね」
声に出すと、妙に乾いて聞こえた。
基準。
便利な言葉だ。
責任を、紙に移すための言葉。
「現場は見た?」
「書類で十分です」
(ああ、そうだろうな)
血の匂いは、紙には染みない。
俺は別の紙を引き寄せる。
端に、見覚えのある言い回しがあった。
迅速な切断。
追加判断不要。
(……俺の言葉だ)
正確には、俺が言った言葉を、
誰かが“使いやすく”整えたもの。
意味が、少しだけ違う。
迅速に切る、は
考えた末に、迷わず切るという意味だ。
だがここでは、
考える前に切れに変わっている。
「この基準、止められるか?」
俺の問いに、男は一拍置いて答えた。
「書類上は、すでに通っています」
胸の奥が、重く沈んだ。
(先に来てやがる)
人より、判断より、
紙のほうが先に来る。
切るかどうかを考える前に、
切ったことになっている。
「……名前は?」
俺は、最後に聞いた。
男は首を横に振る。
「不要です」
その一言で、全てが終わった。
俺は書類の束をまとめ、机に戻す。
紙が擦れる音が、やけに大きく響いた。
(これじゃ、俺が切ってなくても、切ったことになる)
噂が先に来た。
次は、紙だ。
俺が現場に行かなくても、
刃は勝手に振るわれる。
しかも、合法的に。
立ち上がると、椅子が小さく軋んだ。
その音だけが、人間の気配だった。
「確認は以上ですか?」
「……ああ」
そう答えながら、俺は思う。
(このままじゃ、俺は“切るやつ”じゃなくなる)
俺は、刃だった。
少なくとも、自覚はあった。
だが、紙の上の俺は違う。
判断もしない。
現場も見ない。
ただ、前例として存在する。
(冗談じゃない)
部屋を出ると、外の空気は冷たかった。
人の声がして、馬車の音がする。
生きている音だ。
なのに、胸の奥に残るのは、
紙の擦れる音だけ。
(……人より先に来るなら)
(紙を、止めるしかない)
そう思った瞬間、
この先で何を選ぶことになるのか
薄々、分かってしまった。




