名前のない死体
死体は、もう一つあった。
最初の路地から三本離れた裏通り。
湿った石畳に、黒ずんだ染みが残っている。
人はいない。
死体もない。
あるのは、処理された痕跡だけだった。
(……消えてるな)
血は洗われ、石の隙間に入り込んだ分だけが残っている。
雑巾で拭いた跡。
水を流した跡。
慣れている。
慣れすぎている。
(誰かが、片付けた)
俺はしゃがみ込み、石畳に触れた。
まだ、わずかに冷たい。
夜明け前に処理されたらしい。
ここで死んだのは、誰だ?
答えは、どこにもない。
名前も、顔も、役割も。
最初から「いなかった」みたいに、痕跡だけが消されている。
「昨日の件?」
背後から声。
振り向くと、裏通りの顔役が立っていた。
口元だけが動く、いつもの笑顔。
「昨日の“続き”だ」
「へぇ……」
彼は石畳を一瞥し、肩をすくめる。
「死体がないなら、問題もないだろ」
(そういう話じゃない)
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
代わりに、視線で示す。
「一人、余計に消えてる」
「余計?」
「最初の死体だけなら、噂の範囲だ」
顔役は目を細めた。
「……噂?」
「“切るやつ”の」
その瞬間、彼の口角が上がった。
「便利だよな」
あっさりと言われて、胸の奥が少しだけ冷えた。
「理由を聞かれない。結果だけで話が進む」
(やっぱりか)
誰かが俺の噂を“道具”として使っている。
切る理由も、責任も、全部まとめて押し付けるために。
「で?」
顔役が続きを促す。
「今回は、何を切ったことになってる?」
「……知らない」
実際、知らない。
ただ分かるのは、
最初の死体を正当化するために、もう一人切られたということ。
(帳尻合わせ、か)
死体が一つだと都合が悪い。
だからもう一つ用意した。
理由は単純だ。
“例”にするため。
「名前は?」
顔役の問いに、俺は首を振る。
「ない」
書類がない。
登録がない。
誰かの部下でも、商会の人間でもない。
「なら、問題ないな」
即答だった。
俺は一瞬、言葉を失った。
(……問題しかないだろ)
だが、この世界では違う。
名前がない。
所属がない。
記録がない。
それは、最初から死んでいるのと同じだ。
「噂、広がってるぞ」
顔役が、まるで世間話みたいに言う。
「“切るやつ”は容赦しない、ってな」
胸の奥が、じわりと重くなる。
(俺は容赦してる)
だから、切る。
無差別に殺さないために。
だが、そんな理屈は噂には載らない。
「今回のも?」
「そう思われてる」
顔役は肩をすくめる。
「名前のない死体が二つ。
やり方が似てる。
十分だろ?」
(十分、か)
俺がいなくても、
俺の刃は“正解”として使われる。
誰かが困ったとき、
迷ったとき、
責任を取りたくないとき。
切る。
それだけ。
「……俺じゃない」
そう言った声は、自分でも驚くほど低かった。
顔役は一瞬だけ黙り、それから言う。
「知ってる」
「?」
「でも、噂は事実より速い」
それで終わりだった。
彼は去り、裏通りに静けさが戻る。
俺は、もう一度石畳を見る。
染みは乾きかけ、輪郭が薄れている。
(名前がないってのは、楽だな)
殺す側にとっては。
殺された側にとっては、
最悪だ。
この連鎖は、止まらない。
俺が何もしなければ。
(……噂が、俺を追い始めてる)
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
追われるのは、嫌いじゃない。
だが
(追わせた覚えは、ない)
名前のない死体が、
俺の足元で、確かに増えていた。




