噂が、仕事を連れてくる
朝の空気は湿っていた。
夜の残り香が、石畳の目地に溜まっている。鉄の錆、濡れた布、古い油。スラムの朝は、いつも肺に重い。
俺は壁にもたれて腰を下ろし、硬いパンを齧っていた。
歯に当たる感触が鈍い。中まで火が通っていない。
(値段相応。噛めるだけマシか)
噂は、足音より先に届く。
「……あの切るやつ、知ってるか」
「速いらしいな」
「速すぎる。人じゃねえって」
俺は噛むのをやめない。
聞こえないふりは、もう反射だ。
(“切るやつ”。役割ですらない。処理工程だな)
最近、こういう声が増えた。
名前は出ない。顔も語られない。
残るのは、切られた結果だけだ。
迷わない。
切るのが早い。
あとに残らない。
残らない、は嘘だ。
(残る。ただ、拾いに行かないだけだ)
パンを飲み込んだところで、影が差した。
甘ったるい香水の匂い。場違いだ。
「……あなたですよね」
男だ。細身。仕立てのいい服。靴底が減っていない。
俺は顔を上げない。
「誰に聞いた」
「噂です」
(最悪の経路だ)
男は周囲を気にしている。ここが安全じゃないと理解している。
俺は立ち上がり、指先についたパン屑を払った。
「噂は、血を拭かない」
「仕事は拭けます」
即答。
彼は一拍置く。即断は癖になる。癖は足を掴まれる。
「直接来るな」
「……え?」
「依頼なら、正式に出せ。名前を出すな。
“切るやつがやった”も禁止だ」
男は戸惑いながら頷いた。
噂を信じて来た人間は、だいたいこうだ。
(便利だと思ってる。切られる側の想像をしてない)
「条件は?」
「金。情報。責任の所在」
「用意できます」
(言い切るのが早い。表の人間は、いつもそうだ)
男は去った。香水の匂いだけが残る。
間を置かず、別の影。
今度は裏。歩き方が低い。
「……あんた、例の切るやつだろ」
「違う」
「でも、速さが」
「違う」
短く切る。
相手は舌打ちして消えた。
(噂は便利だ。本人が黙っていても、勝手に仕事を運んでくる)
問題は、死にきらなかった責任まで運んでくることだ。
夕方。
彼のもとに三つの話が同時に転がり込んだ。
一つは表の物流事故。
一つは裏の揉め事。
一つは、誰かの失敗の後始末。
共通点がある。
どれも「前に、似た切り方があった」と言われた。
どれも俺の名前は出ていない。
どれも、俺が“やったこと”になっている。
(……追いつかれ始めたな)
噂は、もう背後にいる。
逃げれば増える。
止まれば、押し付けられる。
俺は空を見上げた。
雲は薄い。夕焼けが鈍く滲む。
(表に出る気はない)
だが、
噂に任せておけば、
“切る基準”だけが残る。
基準だけ残るのは、いちばん危ない。
俺は最初の依頼書だけを手に取った。
紙は軽い。まだ血の匂いがしない。
(……整理が要る)
切るやつが、勝手に増える前に。
本物が、前に出る前に。




