名簿に載らない名前
夜明け前の空気は、王都の裏でも冷たい。
湿った石壁に手を当てると、指先にぬめりが残った。苔だ。ここは人が通らない。通らせない場所だ。
(……寝床としては最悪)
背中の痛みが、まだ抜けていない。昨日の“運ぶだけ”の仕事は、簡単だった。簡単すぎて、逆に嫌な感触が残る。危険は、見えないところに置かれている。
俺は、路地の影から影へ移動する。足音を殺すのではなく、足音が意味を持たない場所を選ぶ。
これも、灰帳連流なのだろう。
帳簿を作らないから、足跡も残さない。
(名前を聞かれない仕事。
評価も残らない。
……楽だが、不安だ)
約束の場所は、何の変哲もない古物屋だった。表札は擦り切れ、文字は読めない。意図的だ。
扉を押すと、乾いた木の音。
中は埃と古布の匂いが混じっている。鼻の奥がむずむずする。
「遅くはない」
店の奥から、声だけが出てきた。
「早くもない」
(……時間の概念、曖昧だな)
姿は見えない。
あえて、見せない。
俺は、包みを台の上に置いた。
軽い音。中身は、最後まで確認していない。
「破損なし」
それだけで、十分らしい。
「仕事の名は?」
聞いてしまってから、気づく。
これは、昨日の質問と同じ間違いだ。
「ない」
即答。
「人の名も、残らない」
(……徹底してるな。
白でも黒でもなく、灰色のまま。
だから“灰帳連”か)
布越しに、何かが差し出される。
硬貨袋だ。音が軽い。数は多くない。
(安い。命の値段としては、妥当か)
俺は受け取らず、しばらく見た。
「評価は?」
空気が、わずかに止まる。
「不要だ」
「次の仕事は?」
「必要になれば」
(……通知も、契約も、なし)
つまり
俺が俺である証明は、何も残らない。
それは、安全だ。
同時に、怖い。
(消えるのは得意だ。
だが、消え続けると)
考えを切り上げる。
ここで“自分”を主張するのは、悪手だ。
硬貨袋を受け取ると、手のひらに冷たさが残る。重さは、昨日と今日を生きる分だけ。
「呼び名は?」
店の奥で、紙が擦れる音。
「必要ない」
「仕事の時、どう呼ぶ?」
少しだけ、間があった。
「……“それ”でいい」
(それ、か。
物扱い、徹底してる)
俺は頷いた。
不満はない。少なくとも、今は。
店を出ると、外の空気が少し暖かい。夜明けが近い。王都の表側が、動き出す時間だ。
(名簿に載らない名前。悪くない)
スラムでは、名前は奪われるものだった。
商会では、名前は数字に変えられた。
ここでは
最初から、存在しない。
(……使いようによっては、武器だ)
路地を抜けると、人の気配が増える。
誰も、俺を見ない。
いや、見ても、覚えない。
足取りが、少し軽くなった。
次の仕事が来るかどうかは分からない。
呼ばれる保証もない。
だが。
(選ばれないなら、
選ばれないまま、やるだけだ)
俺は、名のないまま、朝の裏道に溶け込んだ。




