戻れない場所
街道を越えたところで、足を止めた。
遠くに見えるのは、スラムの外縁、かつての生活圏だ。
夕暮れの光が、低い家並みとゴミ山を鈍く照らしている。
懐かしいはずの景色なのに、胸の奥が冷える。
(……近づけないな)
理由は、足じゃない。
傷は痛むが、歩ける。
問題は、戻ったあとだった。
俺は、物陰に身を隠し、様子を窺った。
見覚えのある露店。
裏市場へ続く細道。
あの頃と、配置は変わっていない。
だが
「聞いたか?あの件」
くぐもった声が、風に乗って届く。
「商会の帳簿係だろ。
仲間切って逃げたって」
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
(……早いな)
噂は、足より速い。
生きているよりも先に、物語だけが戻ってきている。
「死んだって話もあるぞ」
「いや、生きてるって。
商会に売られたらしい」
どれも、正確じゃない。
だが、どれも完全な嘘でもない。
(最悪だな。
全部、都合のいい形で混ざってる)
俺は、無意識に帽子を深くかぶった。
ゴミ山の方から、子どもたちの笑い声が聞こえた。
その中に、見覚えのある背丈がある。
(……あいつ)
以前、一緒に物を拾っていた孤児だ。
顔に泥をつけ、必死に袋を引きずっている。
声をかけるべきか、一瞬迷う。
(やめとけ)
今の自分は、
「死んだはず」か「裏切ったやつ」だ。
声をかければ、
彼の居場所まで奪うかもしれない。
(戻れない場所、増えたな)
胸の奥で、小さく何かが折れる音がした。
裏市場の入口付近。
かつてミラと初めて連携した路地だ。
荷運びの男たちが、警戒した目で周囲を見回している。
「最近、変なのがうろついてるらしい」
「商会絡みだと、面倒だ」
その言葉で、決定した。
(……ここも、もう無理だ)
スラムは、弱者の集まりだ。
だからこそ、厄介事を嫌う。
商会の影がちらつくだけで、
排除される。
(正しい判断だ。俺が彼らでも、そうする)
理解できるからこそ、余計にきつい。
日が完全に落ちる前に、俺は距離を取った。
スラムが、背中側でざわついている。
人の声、物音、生活の匂い。
(……生きてる場所、だよな)
そこに戻れない自分が、少し滑稽だった。
足元の土を蹴り、向きを変える。
(次は……どこだ)
地図はない。
帰る場所もない。
あるのは、
値札のつかない命と、
どこにも属さない現実だけ。
俺は、振り返らなかった。
振り返れば、
たぶん、もう一歩も進めなくなる。




