事故の準備
商会の倉庫は、いつ来ても匂いが同じだった。
乾いた木材、油、紙、金の匂いだ。
(ここは、人が消える場所じゃない)
表向きは、そう見える。
帳簿を抱えたまま、彼は倉庫の中を歩いた。
天井は高く、梁には滑車。
荷箱は整然と並び、通路には無駄がない。
(効率がいい。
……人を切る時も、だろうな)
内心でそう付け足す自分に、苦笑する。
「今回の依頼だが」
担当者は、机の上に地図を広げた。
新品。端がまだ硬い。
「辺境の補給確認だ。簡単だろう?」
簡単、という言葉ほど信用できないものはない。
(簡単=説明省略、だ)
彼は地図を見下ろす。
道は一本。回り道はない。
(逃げ道が、最初から描かれてない)
「人数は?」
「最小でいい。君と、護衛一名」
護衛一名。
それだけで、十分すぎる情報だった。
(事故だな、これ)
声には出さない。
出す意味がない。
準備物資は過不足なく揃っていた。
水袋。
保存食。
火打石。
(……多すぎもしない。
少なすぎもしない)
生き延びさせる気はないが、
即死させる気もない。
(“死亡推定”が欲しいわけか)
その方が、後処理が楽だ。
彼は、水袋を一つだけ余分に自分の荷に入れた。
(怒られたら、その時はその時だ)
どうせ、生きて戻らない前提の依頼だ。
出発前、ミラとすれ違った。
廊下の窓から差し込む光が、彼女の髪を淡く照らしている。
「……行くの?」
それだけ。
確認でも、引き止めでもない。
「ああ。すぐ終わる仕事らしい」
自分で言っておいて、内心でツッコむ。
(終わる、は間違ってないな)
ミラは、彼の荷を一瞬だけ見た。
水袋の数。
靴底の減り。
何も言わない。
(……気付いているな)
彼女は視線を逸らした。
「無理は、しないで」
それは、祈りではない。
忠告に近い。
「できるだけ、な」
それ以上、言葉は続かなかった。
出発後、街道を外れた瞬間、空気が変わった。
風が止み、音が減る。
鳥の声が遠のく。
(ああ、ここからだ)
護衛は無口だった。
質問もしない。
(仕事だ。
それ以上でも以下でもない)
俺は、木の幹に小さく印を刻んだ。
一つ。
二つ。
(帰れたら、な)
内心でそう呟いた瞬間、
背筋に、ひやりとしたものが走る。
(……あ)
理由は分からない。
だが、確信だけはあった。
(これは、もう戻る仕事じゃない)
それでも足は止めなかった。
止めたところで、
値段は変わらない。
遠くで、風とは違う音がした。
金属が触れ合う、乾いた音。
怒声。
(……ズレたな)
商会の想定から、何かが外れた。
彼は、進路を変える準備をする。
(事故ってのは、
予定どおりに起きないから事故なんだ)
そしてその判断が、
“選ばれた死”への、最後の一歩になることを。
この時の彼は、
まだ知らなかった。




