帳簿の空白
帳簿の紙は、乾いていた。
インクの匂いも薄れ、
何度もめくられた角だけが、柔らかい。
(よく使われてる帳簿だ)
商会裏の事務室。
窓は小さく、外の音はほとんど入らない。
数字だけが、ここでは呼吸している。
(嫌な場所だ)
数量。
単価。
輸送費。
破損率。
いつも通りの並び。
(……なのに)
指が、止まる。
(合わない)
ほんの、わずか。
銅貨数枚分。
(誤差?)
そう言い切れるほど、雑な数字じゃない。
前世の癖が、首をもたげる。
(ブラック企業で覚えたやつだ)
(こういう“少しのズレ”は、だいたい地雷)
もう一度、最初から追う。
荷の入り。
倉庫の在庫。
出荷数。
(……ここだ)
出ていった数が、帳簿より少ない。
逆なら、よくある。
破損、紛失、誤魔化し。
(でも、少ない?)
(誰かが、減らした?)
喉の奥が、ひりつく。
(気づかれる)
(いや、もう気づいてるやつがいる)
「何かあった?」
背後から声。
振り向くと、事務係の男。
年齢不詳。
目だけが、異様に落ち着いている。
(数字派だ)
「確認してただけだ」
帳簿を閉じない。
(隠すと、余計怪しい)
「問題は?」
(探られてる)
「誤差の範囲」
嘘じゃない。
でも、本音でもない。
男は、帳簿を見る。
俺の指が置いていた場所に、
ほんの一瞬、視線が止まる。
(見たな)
「最近、動きが多いからね」
独り言みたいな声。
(“最近”を強調するの、やめろ)
「調整は?」
(来た)
「次で戻る」
(戻さないけどな)
男は、ふっと息を吐く。
「君は、数字が好きか?」
(嫌いだよ)
「得意ではある」
男は、頷く。
「得意な者は、嫌われる」
(知ってる)
男は、それ以上何も言わず出ていった。
扉が閉まる。
(今のは、警告だな)
帳簿を、もう一度開く。
空白がある。
正確には、書かれていない欄。
(ここ、本来なら補足が入る)
理由。
備考。
処理方法。
(何もない)
(消したか、最初から書いてないか)
どちらにしても
意図的だ。
(俺の“修正”は、もう中で処理されてる)
(想定内、ってやつか)
外に出る。
空気が、少し重い。
倉庫街の匂い。
汗と油と、金属。
(ここでは、数字が人を殺す)
ミラが、柱にもたれていた。
「どうだった?」
(やっぱり聞くか)
「ズレてる」
短く言う。
ミラは、すぐ察した。
「どのくらい?」
(命一つ分、とは言えない)
「小さい」
(だから、致命的)
ミラは、目を細める。
「気づかれた?」
(たぶん、もう)
「気づかせた」
沈黙。
遠くで、金槌の音。
(世界は、何も知らない)
「次は?」
ミラが聞く。
(選択肢は、もう減ってる)
「理由を、用意される」
「切る理由?」
(そうだ)
「切る理由」
ミラは、何か言いかけて、やめた。
(この沈黙、嫌いじゃない)
(でも、長くは続かない)
帳簿の空白が、頭から離れない。
(数字は嘘をつかない)
(嘘をつくのは、人間だ)
そして
嘘を許さないのも、数字だ。




