残された印
倉庫の中は、冷たかった。
昼のはずなのに、陽の気配がない。
石壁が湿気を含み、空気が重く肺に沈む。
(空気が腐ってる)
木と油と、古い紙。
そこに、わずかに混じる薬草の苦い匂い。
(ここ、ずっと使われてたな)
人の気配が消えても、
仕事の痕跡だけは残る。
足元で、砂利が鳴った。
音がやけに大きく聞こえる。
(静かすぎる)
ミラは、黙ったまま奥へ進む。
背中が、いつもより小さく見えた。
(逃げない覚悟の歩き方だ)
棚の影。
埃をかぶった木箱。
指で触れた瞬間、
ざらりとした感触が伝わる。
(長い間、開けられてない)
蓋を持ち上げると、
乾いた音と一緒に、匂いが強くなった。
金属。
薬品。
人の手。
(職人の箱だ)
中には、道具が整然と並んでいた。
小さな金槌。
刃の欠けたナイフ。
くすんだ薬匙。
使われすぎて、角が丸い。
(手に馴染ませた跡だな)
ミラが、薬匙に触れる。
ほんの一瞬。
指が、止まった。
「……同じ」
声は小さい。
だが、はっきりしている。
(来た)
「父の」
説明は、それだけ。
柄の裏。
浅く刻まれた、歪な線。
(目印か)
「急ぐときに、やる癖だった」
ミラは淡々と続ける。
(感情を殺してる)
箱の底。
紙が、貼り付くように残っていた。
帳簿。
湿気で波打ち、
指でめくると、ざらつく。
(これ、読ませる気ない紙だ)
名前はない。
だが、数字は細かい。
量。
日付。
回数。
(人の数は、どこにも書かれない)
数字の横に、記号。
丸と、短い線。
(……覚えがある)
ミラが、指を伸ばす。
「これ」
「署名か?」
「代わり」
(名前を書かない理由、察した)
さらに、赤い印。
(不良品)
俺は、眉をひそめる。
(毒で不良?)
ミラが、言った。
「薄めてる」
(なるほどな)
「そのまま出したら、死ぬ」
声が、少しだけ低くなる。
(父親だな)
「だから、不良にして量を減らす」
(真面目すぎるだろ……)
帳簿を閉じた瞬間、
紙が、ため息みたいな音を立てた。
(それが、嫌われた理由か)
奥の壁。
ひび割れの裏。
指を差し込むと、
紙束が落ちてきた。
(まだ残ってたか)
短い書類。
《責任者:下請け》
《処分済み》
(便利な言葉だな)
ミラは、じっと見つめる。
目が、揺れない。
(泣かないのか)
しばらくして、
ゆっくり息を吐いた。
「……生きてる」
「根拠は?」
(冷静だな)
「死体なら、もっと雑」
(経験談かよ)
外に出る。
風が、顔を打つ。
倉庫の匂いが、少しだけ薄れた。
(戻ってこれたな)
「父は、間違ってなかった」
ミラが言う。
俺は、頷く。
(正しさが、守られるとは限らない)
振り返る。
倉庫は、何も言わない。
だが、全部覚えている。
(物流は、嘘をつかない)
この印は、
過去じゃない。
(使える)
交渉にも。
脅しにも。
壊すためにも。
俺は、心の中で決めた。
(次は、商会が選ばれる番だ)




