パン一切れの値段
朝かどうかは分からない。
ただ、路地裏の空気が少しだけ冷え、悪臭に湿り気が増したことで、時間が進んだことだけは分かった。
(目覚まし時計も太陽も信用できない世界かよ)
腹が、また鳴る。
昨日、いや、この世界での初日。あの硬いパンの欠片一つで、もう体は限界らしい。胃が内側から引っ掻かれる感覚に、思わず腰を折る。
周囲を見回すと、同じように転がっていた子供たちが、いつの間にか数人消えていた。
死んだのか、移動したのか、拾われたのか。
(選択肢が多そうで、全部ろくでもないな)
そのとき、鼻をつく匂いが風に乗ってきた。
焦げた小麦。油。微かに甘い香り。
(……パンだ)
音もした。
カツン、と木箱が地面に置かれる鈍い音。
路地裏の入口付近、布を被った荷車の影が見える。
子供たちが、同時に反応した。
目の色が変わる。
獣のそれだ。
(なるほど。ここじゃ、飯はイベント扱いか)
荷車の主で、年嵩の男が、無言でパンを数個、地面に投げた。
次の瞬間。
地獄が始まった。
怒号。
殴り合い。
引っ掻き合い。
俺も、反射的に前へ出かけて止まった。
(待て。同じことをしたら、同じ目に遭う)
パンは、全部で五つ。
子供は、十人以上。
(全員が取れるわけがない)
奪う側と、奪われる側。
さらに、その外で様子を見る連中。
俺は、後者を選んだ。
争いから一歩引き、地面に落ちた欠片や、蹴飛ばされて転がるパンを目で追う。
殴り合いに夢中な連中は、足元を見ていない。
転がってきた一切れ。
俺は、素早く足で踏み、布切れで包んで懐に隠した。
(セーフ。多分)
直後、誰かが殴り飛ばされ、血と一緒にパンが宙を舞った。
俺は一瞬迷い行かなかった。
(欲張ったら死ぬ。)
荷車の男は、一切こちらを見ずに去っていく。
喧嘩が終わるころには、路地裏に残ったのは、呻き声と、泣き声だけだった。
(配る気、ゼロだな。投げて終わり。平等とは……)
物陰に移動し、隠していたパンを取り出す。
昨日より少し柔らかい。噛むと、歯にじんわりと熱が伝わる。
(ああ……これ、ちゃんとしたパンだ)
そのとき、低い声がした。
「やるじゃん」
思わず肩が跳ねる。
振り向くと、壁にもたれた少年が一人。年は同じくらい。顔に痣があり、目つきだけは鋭い。
「殴られずに取った。頭使ったな」
「……見てたのか」
「見てた」
(うわ、監視社会)
少年は肩をすくめる。
「ここじゃ、早い奴が勝つんじゃない。残る奴が勝つ」
(名言っぽいこと言いやがって)
だが、否定できない。
事実、俺は殴られていない。パンもある。
「名前は?」
一瞬、迷った。
名乗る=覚えられる。
(でも、完全な無名も危険か)
「……まだ、ない」
「ふーん」
少年はそれ以上突っ込まず、立ち去った。
パンを食べ終え、指についた粉を舐め取る。
腹は満たされないが、頭は少し回るようになった。
(整理しよう)
このスラムでは。
・奪い合いは日常
・正面から行くと損
・観察とタイミングが命
・欲張ると死ぬ
(前世の会社と、あんまり変わらないな……)
ふと、路地裏の壁に刻まれた落書きが目に入った。
意味の分からない文字。だが、その下に、乱暴に描かれた王冠の絵。
(上があるってことか)
俺は、膝を抱え、息を整える。
(魔法がなくてもいい。力がなくてもいい)
まずは、生き残る。
パン一切れの値段を、俺はようやく理解し始めていた。




