あぁ、ロミオ
仕方なくジュリエットの家に行った。心配もしてくれずに平気で求めてくるけど、僕が敵地に不法侵入して来てるのは、簡単なことじゃないって分かってて欲しいものだ。
庭からバルコニーを見上げると、まさに今。いつか見たあの有名なシーンが始まっていた。
「あぁ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? その名をお捨てになって!」
ジュリエットはノリノリで台詞を口にする。僕が下で盗み聞きをしているのを知った上で言ってるのだから、少々茶番のような気がしてしまう。
「その名になんの意味があると言うの。バラはバラと呼ばれなくても匂いは変わらず、美しいままなのだから――」
あとどのくらい続くのだろう? 止めないと終わらなそうだから、待つのはやめて僕は咳払いした。
「ジュリエット」
「ロミオ様!! 来て」
ぱぁぁっと嬉しいそうな顔をして、腕を広げた。そこに居ないで早く登って来て、とおねだりするみたいに。
生憎、これ以上、絆されたくないから下にいるよ。
「そろそろ良いか?」
「もぅ。そろそろって、物語を知ってるなら台詞をちゃんと言ってよね!」
「はいはい。別に僕は、ごっこ遊びに付き合う気は……」
「でも来てくれた」
「指輪を返して欲しいから、わざわざ、命をかけて。君の家にね」
「恋の翼で?」
「なんでも良いよ、別に」
言葉を切り、強調して言った。ひまりには全く効いてないみたいだけど。
「ねぇ。そこに居ても、指輪は返すつもりないからね」
可愛いおねだりから、しれっと強制へと変わった。仕方ないから、木を伝いバルコニーに降り、ひまりの目の前に並んだ。
「さてと。バルコニーでする一番大事なことは、結婚の約束よ!」
「それより、指輪をはやく」
「ムリ。手元に無いもん。あたしの部屋にあるの」
ひまりは両手をパーにして広げて、僕に見せる。うまい誘い方だ。
「部屋って……」
まずいだろ。部屋に上がり込たせるのは、勘弁して欲しい。ロミオの呪いでどこまで、僕に及ぼしてくるか分かったもんじゃないから。
「こっち」
そんな僕の思いは、知らん顔で悪意のないにこにことした顔で、僕の腕を引っ張りながら部屋へと連行された。ベッドの横に立ち、なにか小さな物をさっと手に収め、ひまりは僕とじっと見る。
「好き。ロミオ様からキスをして」
「……っ」
「ねぇ、なにをためらってるの。ねぇ早く」
「あ、あのさ……」
だから、その顔で無防備に目を閉じ、顔を近づかれたら……。僕はずっと理性を試されぱっなしだ。
そんな甘えた声に油断していたら、可愛くないちぐはがした台詞だったと気づく。上手く断れないまま視線を逸らすと、ひまりは僕の視界の端で見えるように、指輪をちらつかせていた。
おかげで酔いが覚めた。
「返せって」
指輪を取り返そうと腕を伸ばす。身長差もあるから、簡単に取り返せると思った。だけどひまりの体幹を見誤ってしまった。バランスを崩してふらついたひまりを僕もそのまま、押し倒した形となる。
「怪我は?」
倒れたのがベッドの上だったから、頭を打たせずに済んで良かった。……良かったけれど、僕とひまりの体勢が体勢だ。
ひまりは僕にしがみついた手を緩め、うん、と首を振った。やけにしおらしい。これに乗じて変な気起こす前にすぐにどこうと起きがりかけた時――、惹き寄せられる甘い唇を間近で見てしまった。今まで直視しないように避けてきたのに。
――結夏。
唇だけみれば、前と少しも変わらないジュリエットだ。見つめられたひまりは、少しの怯えもありながら、期待されているのがわかる。
その唇が、重なる時、どのくらい恍惚なのか、僕は知っている――
違うだろ。
「ねぇ? キスさえ、してくれないの?」
甘い吐息に誘われるままに、目を閉じ、唇が重なりかけて、ギリギリで踏みとどまった。もし、してたら、僕は自分を嫌いになってたとろだ。自制できた自分に安堵する。
「どうして? あたしはジュリエットなのに!」
「僕が、結夏を愛しているからだ!」
その言葉を言うのが、しんどかった。目の前のジュリエットを拒否する時の痛みと、ドキドキと高揚して心臓を鷲掴みにされる痛みが、同じ場所で起こっていて、気が変になりそうだ。
自分の上体を起こすついでに、ひまりの腕も引っ張ると、いやいやながら、ひまりも起きた。それから、結夏とは似つかない髪を拾い、首がよく見えるように持ち上げた。
「僕は、この髪型が好みだよ」
結夏が帰ってきたように見える。だけどやっぱり全然違う。
「前のジュリエット……? こーきは二度目なの?」
「あぁ」
「あたしと、前の子を比べないでよ。もう、ゆかって子はここに居ないのに。ジュリエットはあたしなんだよ!」
「ひまり」
「やめて。その名前は嫌い」
「僕は、航生だ。ロミオなんかじゃない。ロミオ抜きに僕の好きなところを、一つも言えないだろ」
「こーきの好きなとこ……? そんなの分かんない。知ってるんでしょ、ロミオのことが好きって気持ちがいっぱいになって、こーきのことは考えられない……」
その言葉、僕があの時に考えていたことと、まんま同じだった。
『あまりにも展開が早すぎて、他のことを考える余裕が無さすぎる。
もっとゆっくり考えていきたいのに、好き過ぎて、そればかりになる』
僕は、結夏と夜を共にしたあと、朝になっても確かにまだ悩んでいた。ロミオじゃない、自分の気持ちだと必死に言い聞かせて、本物だと思いたかった。
だから、責めはしない。
「ひまりがそう言うのも、よく分かるよ」
「だったら!」
「僕は言えるよ」
僕とは絶対に違うところがある。ひまりは僕に興味なんてないじゃん。少なくても僕は、ジュリエットの中にいる結夏に惹かれている理由を、探していた。
結夏だって、最初からロミオじゃないことを見抜き、僕を見てくれた。
今なら、言葉にできる。
「僕はひまりのために、命は懸けられない。許してくれ」
ひまり、ぎゅっと唇を噛んだ。
「できるなら、僕だって結夏に会いたい」
「そんなの。あたしのせいじゃない……。あの子が『私はもうジュリエットをやりたくないから、お願いするね』っていうから……っ!」
泣くのを一回、我慢していたひまりの目から耐えきれずにボロボロと涙が落ちていく。
「今も想い続けて、バカみたい。振られたくせに!」
「振られて、なんか……ない!」
「そうじゃん。こーきにもう会いたくないから、来なかったんでしょ?」
「なんで、そんな事言われなきゃなんないんだよ。結夏は、ただ……。あの状況で、またやりたいって、……思えなくなったのも……」
よく分かってる。
結夏の言葉は、まるで僕がこの世界の最初に来た時にいた言葉にそっくりだった。
あの時、前任を務めたロミオ役になった男が、僕らと同じように愛し、それからジュリエットを失い、諦めたんだ。そしてロミオを放棄して僕に投げた。
確かに結夏も、ジュリエットをやめてしまった。
またやろうって、約束する暇もなかった。……もし僕がまた、ロミオをやるのを知っていたら、結夏は来てくれた?
苦しくても、結夏にはまたこの世界に来て欲しかった……。
「あたしが、今のジュリエットだよ? ……して。どうして。あたしのせいじゃない。あたしが生まれたのも、全部大人のせいじゃん……。いつもそう。なのに……」
もし僕が最初に会ったジュリエットに、「前のロミオを愛している」と言われたら、ショックで押し潰されると思う。生きていけないと思うかもしれない。
少し前まで強気でいたひまりの目から、涙が流れてしだいに声が漏れた。その声が大きくなり、泣きながら文句を言っている。ほとんどが声にならない叫びとなって部屋に響く。
「ジュリ……ひまり」
まずいと思っていた矢先に、ドアの向こうから乳母が「お嬢さま、どうなさいましたか」と心配そうな声がした。泣かしている原因の僕が、逃げるのはダメなのはわかっているけど、こんな場面みつかったら、それでは済まされない。部屋に誰かが入ってくる前に、後ろ髪ひかれながら立ち去った。
「なにがあった?」
バルコニーと木に足をかけ、身を隠しながら覗くと、部屋にティボルトも入ってきてるのが見えた。ため息つきながら、慣れた手つきでジュリエットを持ち上げると、腕に乗せだっこする。片っ方の手で背中を叩く手つきも、いつもの乱暴なティボルトではなかった。
ひまりもロミオ以外にそうされるのを、嫌がるわけもなくティボルトの肩に顔を埋めて、ひたすら嗚咽を交えながら泣き続けている。
やきもちを焼いたとか、そんなんじゃないけど、不思議なものをみてしまった……。