46 さようなら、大嫌いなひと
※少しだけバトルシーンあり
※血なまぐさい描写あり
「は……?」
ダミアーノが血走った目で元婚約者を睨み付ける。その瞳には、憎しみを越えたもはや呪いとも呼べるような、どす黒いものが宿っていた。
キアラは一瞬だけ喉を鳴らして硬直する。
その目。このスカイブルーの瞳が好きだった。優しい視線を向けられていると、一人で思い込んでいた。
しかし、いつからかあの目が怖くなっていた。
冷たくて、恐ろしい視線。この瞳に見つめられるたびに動悸がして、震えて、いつの間にか視線を逸らすようになった。
叱責、罵声、侮辱……そんな黒い塊の詰まった双眸は、じわじわとキアラの心を冷やしていったのだ。
(でも……。もう私は、あの頃の自分とは違うわ……!)
キアラは全身の神経まで強く力を入れて、ダミアーノを見返す。彼は彼女の堂々とした様子に少し怯んだ。
こんな視線を向けられたのは初めてだ。いつも、おどおどと婚約者の顔色を伺うような、意思のない女だったのに。
なのに、今は瞳に光が宿って――……。
「もう敗北を認めなさい、ダミアーノ・ヴィッツィオ。あなたは負けたのよ」
「お前……。誰に向かってその口をきいているんだ……?」
ダミアーノは氷のような冷たい声音で言う。昔のキアラなら泣いて許しを請うたのかもしれないが、今の彼女は一歩も引かなかった。
「あなたです、ダミアーノ・ヴィッツィオ。醜い真似はもう止めなさいと言っているの。いくら他人を引きずり下ろしても、自分の価値は上がらないわよ」
「てめぇ……」
ピキピキとダミアーノのこめかみに青筋が走った。怒りで全身が波打つ。
こんな……こんな馬鹿な女に、自分が負けるなど…………。
「キアラの言う通りだ」と、レオナルドは剣先をダミアーノの頬に当てた。「大人しく罪を認めるのだな。皇后派閥に、未来などない」
「…………」
肩にのしかかるような重苦しい沈黙が停滞する。ダミアーノはきつく唇を引き結び、表情のない顔で皇太子を見ていた。
少しして、
「……絶対に許さねぇ……っ……!」
ダミアーノがぼそりと何か呟いたかと思ったら、にわかに立ち上がった。
「キアラ! お前だけは絶対に殺すっ!!」
次の瞬間、彼は手元の魔道具に己のマナを全て注ぎ込む。魔獣を作り出す魔道具だ。
刹那、魔道具から眩い光が溢れ出て、勢いよく爆ぜた。
爆風が二人を襲う。レオナルドは咄嗟にキアラを抱きしめた。
やがて土煙が消えると――、
「キアラ……コろす……」
さっきまでダミアーノだったものは、猪のような外見に手足は四本ずつはえて、全身毛むくじゃらで、人の頭くらいの大きな口からは鋭い牙と、だらだらと粘つく涎を垂らしていた。
「キアラああアァァぁぁぁぁっ!!」
それは、全速力でキアラに突進して、彼女を噛み殺そうと巨大な口を開けた。
「危ない!」
レオナルドがキアラの盾となる。獣の牙が彼の腕をかすれて、赤いものが宙に飛んだ。
「レオナルドさ――」
「君は下がってろ」
「キアラぁっ!」
ダミアーノは猛スピードで再び突進してくる。
レオナルドは注意深く見定めて、ぶつかる直前で獣の両腕を断ち切った。
「アアアああああぁぁぁッ!!」
血飛沫が上がり、獣は倒れてのたうち回る。びちゃびちゃと魚が跳ねているようだった。
「許さンっ! 許さッ――」
それでも獣は強い意思で立ち上がる。今や彼の本能は、「キアラを殺す」ことしか残っていなかった。
「邪魔しやがって……いつもいつもイツモォォぉッッ!!」
両脚を踏ん張って、ジャンプするようにキアラに向かった。
キアラは応戦しようと魔法を構える。
だが、
「君はじっとしてなさい」
レオナルドが、今度は脚を斬った。
「ギャアああああぁぁぁああアアッ!!」
獣は、芋虫のようにゴロリと転がる。それは、もう人ではない何かだった。
耳を塞ぎたくなるような、断末魔の叫び声が鳴り響く。
その化け物の汚い声とは対照的に、レオナルドは慈しむような優しい声音でキアラに言った。
「君の手は、綺麗なままでいてくれ。汚れるのは俺だけでいい。
……もう、君は戦わなくてもいいんだ」
「っ……! 私は……」
彼の言葉に彼女は一気に緊張が解けたのか、自然と涙が溢れ出した。
レオナルドは微笑む。とても優しい笑顔だった。太陽みたいにとても眩しくて、キアラの心も浄化されるようだった。
彼は彼女の過去の全てを察していた。ダミアーノに魅了魔法で操られて、汚れ仕事をいくつもやらされたのだろう。それは彼女の心をじわじわと破壊していったに違いない。
だから、キアラには、もうそんな行為はさせない。
これからは、彼女の苦悩は、代わりに全て自分が受け止める。
「君の手は美しい。これまでも、今も、これからも、ずっと……」
「…………!」
キアラの心の奥底に張ってあった氷の膜が、七回目でやっと溶けた瞬間だった。
「アアああガガガあああァ……」
かつでダミアーノだったものは、手脚を斬られ、もうまともに動けなかった。それでもキアラの憎悪だけは止まらず、彼女に向かって動こうともがいている。
「潮時だな」
レオナルドはおもむろに剣を構える。
そして、
化け物の心臓を一突きした。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!」
紛い物の魔女のマナが周囲に飛び散って、黒い煙と臭気が広がる。
それらが晴れた残骸には、肉塊のようなものがべしゃりと潰れていた。
キアラは黙ってそれを見つめる。
悲しいとか悔しいとか寂しいとか、そこに無駄な感情は少しも残っていなかった。
さようなら、大嫌いな男。
地獄に落ちてくださいね。
永遠に…………。




