表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣たちの死骸

作者: 晴樹

「――次のニュースです。警察は、動物愛護法違反の疑いでK市在住の無職、市川達郎容疑者28歳を逮捕しました。警察によりますと、市川容疑者は自宅で飼っていた数百匹の犬や猫を虐待して殺したということです。市川容疑者の自宅では、動物のものと見られる骨が見つかっており、警察は動機について詳しく調べる方針です――」


**


市川は、世の中で言う所のエリートだ。大学を優秀な成績で卒業し、就職した大手企業においては出世レースの先頭をひた走っている。多くの同僚、後輩がハードワークで倒れる中、市川は休むことなく働き続け、上司の信頼を勝ち得ていった。それと引き換えにして彼に与えられるものが、誰もが羨む程の給料なのだ。


美しい妻を娶り、公私ともに充実しているという世間からの評価は、市川の自尊心を満足させるものだった。それでも、自分の人生が順風満帆とは言い難いことは、市川の自覚する所だった。その原因は、妻にあった。妻の容貌や教養は、市川の虚栄心を満たすのに十分であったが、一方で少々世間知らずの所があった。結婚前は些細なことだと割り切っていたのだが、最近は全容が見えない怪物のほんの一端なのではないかという恐怖があるのだ。


「ただいま」


市川の帰宅はいつも遅い。朝も早いから、家などただ寝るための施設だと思えてくる。いや、「思いたくなった」というのが正しいだろうか。その理由は、家の中を勝手気ままに動きまわり、昼夜の別なく鳴きまくる動物たちにある。


最初は、一匹の捨て猫だった。妻が「かわいそうだから」と、拾ってきたのが始まりだ。市川もペットを飼うこともやぶさかではなかったため、反対しなかった。欲を言えば血統書が付いている方が良かったが、そういう見栄を除けば、僅かな休日の癒しになってくれることさえ期待していた。


それで終われば、夫婦の日常を彩る細やかなイベントで済んだのだろう。気が付けば妻は2匹目、3匹目と次々に拾ってきては自宅で飼い始めていた。「かわいそうな子たちを助けるのは当たり前のことよ」というのならば、自分の稼いだ金でやれ、とは思ったものの、もう口には出さなかった。市川がそういう反論をすると、妻は決まって「人として恥ずかしいとは思わないの?」という文句でそれ以上の議論を封殺するのだから。


正確な数は分からないが、優に100匹を超えるであろう犬や猫が、市川の家に我が物顔で居座っている。家主が帰ってこようとも、愛想の一つも寄こさない。それが市川の堪忍袋にちょっかいをかける一つの要因であるが、その程度で動じるようでは、上司のパワハラになど耐えられるわけがない。幸い、彼らの餌代は市川の稼ぎで賄えている。貯蓄を切り崩すようになる前に、妻を正気に戻す必要があると、市川は考えていた。


新婚の頃は市川がどんなに遅く帰ってきてもかいがいしく待っていた妻であったが、今は夫よりも動物たちにご執心のようだ。恐らく動物愛護関連の会合だろうが、単に「会合に参加してきます」というメモだけがテーブルにあるのは今日に始まったことではない。市川はお湯を沸かし、カップラーメンに注いだ。そのお湯が注がれるのを眺めながら、市川は「これが自分の望んだ幸せだったのだろうか」と自問する。それは答えのない問いだった。


出来上がったカップラーメンを食べようとした時だった。胸が突然苦しくなったかと思うと、これまでに感じたことのない激痛に変わっていった。市川にとって幸運だったのはそのとき近くにスマホがあったことで、薄れゆく意識の中、救急車のサイレンの音だけが市川の耳に残り続けた。


それから市川が自宅に戻ってきたのは2週間後のことだった。倒れた原因は過労だと医者から言われたときには驚きはなかった。しかし、見舞いに来た会社の上司が渡した解雇通知には動揺が隠せなかった。病気で倒れて会社を去る者がいることはよく知っていたが、会社にこれだけ尽くしてきた自分があっさりと切られることに現実感がなかった。あっという間に無職の誕生である。市川の自尊心は粉々に砕かれ、退院した今でもどこか上の空である。


「これからどうしようか」


獣どもしかいない空間に放られた、受け止め手がいないただの独り言。これまででは考えられない言動に、市川は呆れる。妻は市川が倒れたと聞くと、病院に飛んできて、傍にいてくれた。それが市川にとって久しぶりの妻との夫婦らしいやり取りだったが、上司が来たのを境に、妻はぱったりと見舞いに来なくなった。退院日も迎えに来ず、自宅にもいない。それを深く考える程、今の市川に余裕はなかった。


玄関が開く音がした。市川は妻が返ってきたのだと思った。大方、退院祝いでも買ってこようとしたのだろうと、市川は思った。


「おかえり」


「市川さん」


「なんだよ、他人行儀な呼び方だなあ」


妻の挙動はごく自然だった。ごく自然に壊れていたと言ってもいい。


「だって、もう赤の他人ですもの。先日、離婚届を提出したの。ああ、あなたの署名は適当に書いたわ。役所には分かりっこないし」


市川の明晰な頭脳は真っ白になって「話しが理解できない……」と絞り出すのがやっとだった。


「そう? 稼ぎがない男と一緒にいるなんて考えられない、というのは普通の考えかと思ったのだけれど。今日はこの家の鍵を渡そうと思ってきたの。もう転居も済んでるから、持っていくものもないし」


市川には、妻の言動が一つも理解できなかった。耳は妻の声を捉えているし、目は妻の肢体を捉えている。しかし、それらの情報が脳に到達したときまったくバラバラで、世界中のジグソーパズルから一ピースずつを集めたかのように、繋がりを見つけられなかった。


「あと、この子たちをお願いね。私じゃ飼えないから」


その瞬間、市川の中で何かが切れる音がした。手近な物をつかむと、思いっきり妻の頭を殴りつけた。荒れた息を整えながら倒れた彼女の脈を取ってみるが、既に死んでいた。それから自分が握っている物に目を向ける。それは、新婚旅行で買ったブロンズの置物だった。血で汚れたそれを床に放ると、市川はこれまでに感じたことのない程の達成感が、心の内から沸き上がってくるのを自覚した。


それから家中の動物を殺しては、彼女の亡骸の横に寝かせた。市川にとって、動物たちも彼女も、等しく自分を苦しめた(けだもの)であった。だから、これらを共に眠らせてやろう。


人と獣を分けるものは何か――少なくとも骨ではあるまい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ