第十四話 アサリのココロ
「と、まあこんな感じだな」
語り終わって。
観覧車はすでに回りきるところまで来ていた。
「そうか、あのときだったのだな」
「ああ、だからお主も知っとることだと言ったであろう?」
絵里は遠くの落ちかけた夕日を見る。
「私は彼の支えになりたい。それが一番の願いだ」
「なら、シジミ君を私が奪ってもいいと、そう言うのか?」
「ああ、最終的に彼がそう決断したならな。一生忘れられないとは、思うがな。けれど、彼が最終判断を下すまで諦めるつもりはない。私は彼が好きだからな」
語る絵里の顔はほんのり赤い。けれど表情に迷いはなく、自信に満ち溢れていた。
「本当に、変わったのだな」
「変わったのは貴様もであろう? なあ、氷の会長?」
ガシャという音と共に、扉が開いた。もう閉園まで五分もない。
「今度はお主が語る番だが、もう遅いみたいだな」
「なら、今度また会うのだ。その時は、私も話す」
「ぜひそうしてくれ。我だけ損した気分になるのは嫌だからな」
二人は一緒に出ると、同じ道を並んで帰った。
楓は絵里の横顔を見る。これまでとは決定的に違う人に見えた。
彼女は泥棒猫などではない。
心を同じくする、嫌いになれない恋のライバルだ。
二人が観覧車に乗り込む、数分前。
何に乗っても上の空。待ち時間はずっと下を向いている。俺はそんな亜沙理に声をかけた。
「亜沙理、今から観覧車に行こう」
「い、今からですか? なぜに? もうすぐ遊園地だって閉まるんですよ?」
「いろいろ話したいことがあるんだよ。それも作戦に関わる大事な話だ。あの二人に聞かれるのもまずいだろ?」
「それはそうですけど……。別に家に帰ってからでもいいのでは?」
「ああもう! お前変なとこばっか頭回るよな!」
俺は、えいやっとばかりに亜沙理の手を取って走り出した。
「ここからそんなに観覧車まで遠くない! 走れば間に合う!」
「は、はあ。あなたはやはり自己中心的です」
「うるせー。お前だけには言われたくねーよ」
悪態をつき、俺は苦笑いする。亜沙理には俺が今どんな風に写っているのだろう? そんなことをふと考えてしまう。
数分もせずに、目的地にはたどり着いた。
観覧車の前にいた係員の人に聞いたところ、あと五分は動かせるみたいだった。
「よし、やっぱり余裕だったな」
「どこが余裕なんですか頭おかしいんんですかそうですか」
「おうおう、やっといつもみたいな調子に戻ったみたいだな」
「えっ?」
「ずっと死んだ魚みたいな目で俯いてたろ? 気づかなかったのか?」
亜沙理は心底驚いたように固まっている。どうやら本当に自覚がなかったみたいだ。
「聞きたいのはそのことだよ。亜沙理」
「どういう、ことですか?」
「なんであんな苦しそうな顔してたんだ? なんでお前の左手は震えているんだ?」
はっと気づいて亜沙理は手を引っ込めた。
「そんなの、あなたには関係のないことです」
「関係なくはねーよ。俺がお前のことを知っておくのは今後の作戦にも有効に働くはずだ。大体、お前は俺のことを知り尽くしてるのに俺がお前のことを何も知らないっていうのは、不公平ってもんだろ?」
「それは確かにそうですけど……。ちょっとあなた厚かましくないですかね?」
「知ってるよ。それが俺の性格だからな仕方がない」
「はあ、分かりました。もうあなたに反論するのも疲れました」
亜沙理はそう言いながらも、また少し悲しそうな表情になる。
その時の表情が、まるで甘え方を知ったばかりの子供のように思えたのは、必然だったのかもしれない。
でも語り始めた彼女の顔は、また、氷のような冷ややかな無表情になっていた。
私は旅客機の墜落事故で父と母を失いました。
私は親戚を転々とした後に孤児院に引き取られました。親戚のことを何度も恨みましたが、今思うと仕方がなかったのかもしれません。あの時の私はこの世のすべてに絶望していましたから。生活を共にするのに、虚ろな表情を解くことがない少女の世話など、誰が焼きたいと思うのでしょう。連れていかれた孤児院で呆けたまま時えお過ごしていた私に転機が訪れたのは、桜舞い散る四月の頃でした。
その朝、定期的に行われる身体と思考のテストの結果を見込まれた私はこの国の影のエキスパートを養成する施設に招かれたのです。そこでは身体訓練から頭脳を鍛える訓練を毎日しなければならなかったけれど、そこはとても居心地がいいところだったのです。そこには母の愛があったから。ここで言う母というのは、すでに忍者として活躍していたエリートでボスのこと。ママは私たちに均等に愛をくれた。けど、けどね。私は知らないの。本当の家族の形を。本当のママやパパがくれるはずだった愛を。学校にだって行ったことがない。だから、だから……、ね。
「私には、普通がわからない」
悲しいはずの過去を、無表情で語る亜沙理は、やはり、何かを我慢しているように見えた。そんな顔をされたら、俺だって苦しいし、見過ごせるわけなんてない。
「それで?」
「え?」
見放すことなんてできるわけがない。
「お前はどうしたいんだ?」
「わた、し?」
「そうだよ。お前のことだ。お前のやりたいことは、なんだ?」
「私は、私は、幸せになりたい。もっと皆と話したい。一人は嫌だ。けど、けど、私にはそんなこと、許される訳がない。だって、私は……、すでにいろんな人に迷惑をかけて、いろんな人の助けで生かされている。だから、これ以上望むことなんて、許されるわけがないんだ」
亜沙理が目元に涙を浮かべる。
そこで、観覧車は周回を終えた。
「あ……」
亜沙理は降りようとしたが、俺はそれを許さなかった。
「おじさん! すみません! もう一周だけお願いします!」
外を見ると、係員の男が親指を立て、オーケーのサインをだした。
「さあ、もう一ラウンドだ。亜沙理」
夕日さえも落ち、オレンジの明かりもほんの少ししかない。
そんな中、観覧車の中は無言の空間となっていた。二人は、どちらも続けるべき言葉を失っているのだ。
少しづつ、少しづつ、観覧車は小さく揺れながら回り続ける。
俺は考え、迷う。彼女には、何と声をかけるのが正解なんだろうか。どんな言葉も、慰めの言葉にしか聞こえないだろう。
フィクションだと、あれだ、「今のアイツには何を言っても駄目だ。そっとしておいてやれ」ってシーンだ。そしてきっと、慰めをかけるのは偽善的な行動だろう。それをしたって、きっと自己満足にしかなりえない。
でも、それがなんだって言うんだ。
「それは同情でしかない」? 「偽善でしかない」? それがどうしたんだ。
ああ、同情だよ。俺はあいつをかわいそうだと思っている。幼少期に親を亡くして、心から信頼できる人はきっと片手で数えるしかいない。そんなの、かわいそうに決まっているじゃないか。
これは偽善だよ。俺には人の心を読む力なんてないから、あいつがどう思っているのかなんて分かるわけもない。俺のやっていることは自己満足だ。俺がこうしたいから、するだけだ。あいつはもしかしたら、また深く閉じこもってしまうかもしれない。
でも、俺は少しでもあいつが救われてほしいと願っている。
「亜沙理、お前は一人じゃないよ。一人になんて、俺がさせない」
だから、俺は最高に偽善的で、同情的な、俺の願いを伝えることにした。
「亜沙理、お前は誰よりも幸せになっていいんだよ。学校の皆と話したいなら、思う存分に話せばいい。友達なら、少ないけれど、俺が紹介してやるし、お前なら問題なくすぐにでもできるはずだ。そんなことぐらい、許されるに決まってるだろ。少なくとも、俺はお前に幸せになってほしいと思ってる」
亜沙理は俯いていたが、密室された空間に、彼女の嗚咽が聞こえてくる。
「よく、よくそんな恥ずかしいことを、すらすら言えるもんですね! だ、だいたい、なんであなたがそこまでするんですか!」
もう観覧車は四分の三以上のところまで来ている。でもこのセリフは、時間に追われて焦ったから言うわけではない。これは、俺が言うべきだと思って、言うことだ。
「婚約者だから」
「え?」
「俺は、お前の婚約者だから」
「そんなの、建前に決まってるじゃないですか。まさか、本気にしてたんですか?」
「ああ、少なくとも、俺とお前は嘘の共犯者だからな。このミッションがある限りは、それだって真実だろ? だから、俺はお前の傍にいるよ」
観覧車は、もう降りなければいけないところまで来ている。閉園時間もギリギリだ。
俺は亜沙理の手を黙って取って、駆け出した。
今、彼女はどんな顔をしているんだろうか。その顔を覘く勇気が俺にはない。
彼女の心は救われているのだろうか。
帰ったら彼女とは、またいつも通り馬鹿のような話ができるだろうか。
また、分からないことが増えてしまった。向き合わなければならないことも。
俺は、彼女の力になりたい。
なぜそう思うのか、今はまだ分からないけれど。
そのためにできることは何なのか、俺は探し見つけ出さなければならない。




