1 まさかの転移
「はぁ、はぁ……。クソッ、まさかこんな所で俺は死ぬのか?」
「ガァァァァァ!」
今俺の目の前では日本では到底見ることは出来ない、いや世界のどこを探しても目にすることはない程の巨大な生物が口を開けこちらに迫っていた。
大きさは10mはあるだろうか。その身体は黒く染まり爪は鋭く、口に並ぶ牙はそれだけで俺の体はありそうな大きさだ。
「……ふざけるなよ。いきなりこんな所に来たと思ったら、次は訳も分からない生き物に食われるのかよ」
だがそんな気持ちとは裏腹に、俺の体は力が入らず言うことを聞こうとしない。
背にある木がなければ立っているのも無理だろう。
これも全て先ほどの不思議な力を使ってしまったせいだ。
俺は迫りくる生き物の姿にいよいよ覚悟を決めると、大きく開く口の奥に見える漆黒の世界を見つめるのだった。
─1日前─
俺、羽間翔一はその日、いつもと変わらない朝を迎えていた。
大学を卒業して2年、ようやく社会人としての生活にも慣れてきた。
まぁ俺が就職した会社はいわゆるブラック企業と呼ばれるもので、エンジニアとして採用されたのは良かったものの、毎日朝早くに出勤し深夜に帰宅する。いや会社に何日も寝泊まりすることも多いのだ。
この日も朝6時前には家を後にし、冬の寒空の下駅までの見慣れた道を進み始めていた。
「はぁ、まだ外は日も昇りきってないじゃないか……。俺ってこのままこの仕事していてもいいのかな。その内過労で死ぬんじゃないか?」
だがまだ外を歩く人影も殆どなく、徐々に白んでいく空を見つめながらそんな冗談を呟いていたそんな時、変わらない日常を打ち壊すように突如として異変が起こった。
かろうじて見えていた数人の人影は既に街の中には見えず、いつもなら聞こえる鳥の鳴き声も聞こえない。妙な静けさが俺の周りを包んでいたのだ。
ゴクッ……。俺はその異様な雰囲気に足を止めると、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じながら息を飲んだ。
その瞬間、激しい揺れが街全体を襲ったのか立つこともままならなくなった俺はその場に急いでしゃがみ込む。
「な、なんだ、地震か?! い、いやでもおかしい……、これは……」
しばらくして頭を上げた俺はようやくあることに気が付く。
遠くに見えるビルやマンション。これだけの揺れを受けているというのにこれらの建物は全く揺れているようには見えない。
そう、どうやらこの揺れは街を襲った地震などではなく俺の周辺だけに起こっている現象だったのだ。
しかも足元には見たことも無い模様が光を放ちながら浮かび上がってきた。
「嘘だろ何だよこれ! っておいちょっと待て……」
だが次の瞬間、俺の周囲は地面に浮かび上がった模様から放たれた光に包まれると一瞬で視界を奪われ、俺の記憶もそこで一時途絶えることになった。
どれだけ時間が経ったのだろうか。俺が目を覚ました時最初に目にしたものは木々の間から見える日の光。しかも先ほどまではあれだけ寒かったというのに妙に汗ばむ。
この奇妙過ぎる出来事に俺の頭は全く付いていくことが出来なかったが、いつまでもここで寝ている訳にはいかない。
体をゆっくりと起こすと周りを注意深く見渡すことにした。
「ここは……、森の中か? 一体何が起きたんだ。まさか誘拐、な訳はないよな。それにこの地面は……」
周りは数十mはあろうかという大木が広がっているが、なぜか俺の周囲だけは自然の中では異質な物、アスファルトの見慣れた地面が半径2m程の円状に広がっている。
これは、俺が先ほどまで歩いていた地面なのか??
まるで足場ごと抉り取ったようだ。もし誰かにここまで連れてこられたこんな手の込んだ真似はしないだろう。
それに視界に見える木の大きさも異常だ。これだけの大木、まず日本ではお目にかかれない。
「……一体何がどうなってるんだ。こりゃ、今日は出勤は出来そうもないな」
こんな時にも会社の事を口にした自分に気が付いた俺は小さく笑みを浮かべた後立ち上がると、身に着けていたコートに上着、ネクタイを外し右腕に抱え森の中を進み始めた。
この暑さ、ここは日本ではないことだけは確かなようだ。
分からないことだらけだが、じっとしていては何も始まらない。
まずは見つかる保証もないが、誰か人間を見つけることだな。
「全く、何がなんだかな」
俺は混乱しつつも冷静を保つように自分に言い聞かせながら、更に森の中を進んでいくのだった。
その夜。
昼間の内に何とか森の中を流れる川を見つけていた俺は、その日はそこで休みを取ることにした。
「やっぱりむやみに歩き回るのはマズかったかな……。これだけ進んでも森を抜ける様子がない。この森は想像以上に深いのかもしれないな」
上着のポケットに入っていた飲み屋で貰ったマッチで起こした火に当たりながら自分の考えの甘さに小さく息を吐く。
暖かいと言ってもやはり夜は少し冷える。まさか先輩に強引に連れて行かれた飲み屋で貰ったマッチが役に立つ時が来るとはな。
それよりもここまで進んできた中で目にしたもの。見たことも無い巨大な花を始めとする植物。犬とも猫とも言えないような小動物。
これらのことが俺の中である仮説を導き出していた。
「……やっぱりこれって、いわゆる別の世界に飛ばされたという奴なんだろうか? アニメなんかでは見たことがあるけど、実際に起きるなんてことは」
だがそれ以外にはこの出来事を説明することが出来ない。
考えてみればここに来る前に俺の足元に浮かび上がったもの、あれは魔法陣というものではないのだろうか。
それならもう一度あの模様を作ることが出来れば日本に戻ることも出来るということになるのか?
「ハァ……、そうなるとやっぱりまずは誰か人を見つけないと始まらないな」
「グルルルル」
「な、なんだ?!」
明日に備え眠りにつこうと体を横たえた俺の背後で、何か物音が聞こえすぐさま焚火の炎を手元に集めていた薪にも移すと、物音がした方向に視線を向ける。
大木に遮られ星明りも届かない森の中は、火の光があっても数m先を見るのがやっと。
だがしばらくしてその数m先に現れた「もの」に俺は背中から大量の汗が噴き出した。
「ま、まじかよ」
「グアァァ!!!」
そこに現れたもの。それは灰色の毛に覆われた狼のような生き物。
ただ俺の知っている狼と違うことは、その姿が巨大だったということ。
明らかにライオンや虎よりも巨大じゃないか……。
しかもよく見れば至る所に動物の目の光がこちらを見つめている。
「……くそ、もう逃げ場はないってことかよ」
どうする? 一か八かで逃げてみるか??
いや、狼は何十kmも獲物を追いかけるって聞いたことがある。
目の前の奴は俺の知っている狼よりも遥かに巨大。速さも持久力もその比じゃないかもしれない。
そんな奴が他にも周りを囲んでいるとなると……。
「これは100%詰んだかな」
「グアァァァァ!!!!」
俺が半ば諦めたことを察したのか。目の前の狼は大きく一度雄たけびを上げた後、後ずさる俺へと一気に飛びかかってくる。
諦めかけたとはいえ、はいそうですかと食われてやるほど俺はお人好しではない。
効果は薄いと感じながらも右手の松明を投げ捨て、その右手で狼の頭部へと一気に拳を振りぬいた。
だがその結果は俺の予想に反していたのだ。
狼を殴った瞬間、右拳は青白く光りを放ったかと思うと狼の巨体は後方へと吹き飛ばされピクリとも動かなくなる。
「……どういうことだ? この光は一体」
俺の右手を覆う光。これが何かは分からないがもしかしたら助かるかも……、はぁはぁ、な、何だ急に息が上がって……。
クソ、どうやら上手いことは行かないみたいだな。
この光、やたらと体力が奪われていくみたいだ。
「はぁ、はぁ、でもこんな力を見せられたら他の狼も迂闊には」
バキバキッ!! しかしそんな俺の考えはすぐさま裏切られる。
俺と狼達の騒ぎを聞きつけたのか、大木を抉りながら現れたのは狼とは比べ物にならないほどの巨体を持った生物。
その姿に周囲を取り囲んでいた狼達の気配はいつの間にか消え失せ、先ほど殴り倒した狼は今にもその生物に食われようとしている。
辺りを覆う地響きで既に意識を取り戻した狼だが、恐怖からかその場から動こうとしない。
俺も流石にこんな奴の相手は出来ない。
狼に奴の意識が向いている隙にその場から逃げ出そうとするが、その瞬間狼と目が合ってしまった。
おいおいおい、そんな目で俺を見るな!
お前はさっき俺を食おうとしたんだ、自業自得だろう。そんな奴をわざわざ助けるなんて……。
……あぁくそ! 分かったよ!!
「あとで俺を食いやがったら承知しないからな!! ダラァァァ!!」
足を止めた俺は自分のお人好しに呆れながらも振り返り、2体の間に割り込むと再び右拳に力を込め狼を食おうとしている生き物を殴りつけた。
まるで鉄板を殴りつけたかのような硬さと、鈍い金属音。
その生き物は生まれて初めて経験する痛みに雄たけびを上げのたうち回る。
だがしばらくして体を起こすと、完全に俺へと標準を移していたのだ。
「や、やばい! もう1回攻撃を……、ぐっ!」
迫りくる生き物を迎え撃とうと再び拳を握る俺だが、視界が揺れ、足に力が入らない。
どうやら先ほどの攻撃で力を使い果たしたのか、背後にあった大木を背に何とか倒れるのだけは免れた状態になっていしまったのだ。
く、くそ、まじかよ……。
やっぱり似合わないことはするもんじゃないな。こんなことならもっと……
「何じゃ、騒がしいな」
ひ、人の声? 一体どこから……。
突如聞こえたその声の主へと視線を向けると、そこには白髪白髭の老人が岩の上に座っており俺を食おうとしている生き物に左手を向けていた。
そんな老人の存在に気が付いたのか、先ほどまで俺に口を開けていた生き物はまるで何も無かったようにその場を後にしていったのだ。
去っていく生き物。その姿からは明らかに恐怖を感じ取れた。
た、助かったのか? いや、それよりもあの老人は一体何者……
だがそこで俺の体は遂に限界を迎えたのか、2回目の意識の喪失を迎えるのだった。