降臨、最上位天使『第一位』ニケイア
最上位天使『第一位』ニケイア。
そう名乗った美しい天使の女は、背の六枚の翼をはためかせ、嬉しそうに告げた。視線は上空──大陸蝶だ。
「『七支天獣』が一角、大陸蝶。よくぞ見つけ出してくれましたねトリエント、そしてエフェソス。天使として、大変誇らしく思います」
「は……光栄の、極み」
にこやかに、まるで花畑の中で可憐に笑う少女のように。天使としての目的達成を讃える言葉を放つニケイアに、トリエントは右腕を失って朦朧とした意識の中でも、たしかな達成感と共に頭を下げた。
しかし……不意に、ニケイアの表情が曇る。困惑というよりは、純粋に困ったような表情だ。
視線が次にアインたちに向けられ、身構える。それを意にも介さず『第一位』は、続けて言った。
「けれどもこれはやり過ぎですよ? かの『オロバ』なる組織に潜入し、大陸蝶の情報を探るために協力するところまではまだ良いとしますが……目的が果たされた後にも関わらず未だ、このように人間を襲う理由はありますか?」
「……無い、でしょうな。天使ならば」
「ええ、ありません。我らは大義のためならば他のすべてを踏みにじりますが、逆を言えば大義が関わらないところでそのようなことをするのは、良くないのです。それは『神』のご意志に背くこと」
つらつらと述べる言葉はある種、トリエントの方向をさえ向いていない。己の思想、意見を世に向け発信している、スピーチのようにアインたちには思われた。
ふう、と息を吐く。利かん坊を見るように、右腕を失い死に体の天使と、その脇で倒れ伏す包帯の天使とを見下ろす。
「どうせ義理を重んじたのでしょう? 師弟揃って戦士に過ぎます……まともに語らったこともないリリーナの影響を、一体いつまでも引きずるつもりですか、まったくもう!」
「返す、お言葉も……ですがどうか、エフェソスだけはご容赦を。敗れこそしましたがこの子はたしかに、成長したのです」
「分かっています。一目瞭然でしょう? この子が殻を破ったことなど。どうにも戦士としてなのが気になりますが、コンスタンツ同様バランス感覚を整えればまあ、些事としましょう」
「ありがとう、ござい、ます……っ」
死ぬ寸前だが、トリエントは安堵に微笑んだ。エフェソスの無事だけはどうにか確保できたと、確信したからだ。
このニケイアという天使は、天使の中の天使だ。慈悲深く、優しく、暖かいが──反面、必要ならばどこまでも冷淡になる。態度はそのままに、大義の元にすべてを使い捨てようとする性質があるのだ。
ひとまず弟子はニケイアの冷淡さに晒されることは避けられたのだろう。そのことで彼の精神は一気に緩んだ。思い残すことはないと、死を受け入れたのだ。
大義は達成した。義理も果たした。敗れはしたが全力を尽くせたのだし、その末に目的も成し遂げられた。その上、弟子の成長を目の当たりにして最後に役に立てたのだ。戦士としてこれ以上ない終わりだろうと、トリエントは微笑む。
薄くなる意識、拡散していく魂。
最上位天使『第四位』トリエントは、かくしてその命を尽き果てさせようとして──
「何を一人だけ満足して死のうとしているのですか、あまりに勝手ですよ! 『天裁神術式"療"』!」
「な──あ、う?!」
──憤慨したニケイアによる回復術で、傷口を強制的に塞がれ一命を取り止めさせられた。光が一瞬身体を包み込めば次の瞬間、腕こそ失われたままだが外傷は一切が消え失せている。意識も明瞭だ。
これにはアインたちも目を剥き、叫ぶ。
「そんな馬鹿な、致命傷が!?」
「貴方たちのこれまでの戦いを無為にする意図は決してございません──身勝手な自己満足だけ抱えて、迷惑を掛けるだけ掛けて逃げ出そうとしたこのどうしようもない愚か者に、きっちりと責任を果たさせるための処置です。どうかご理解いただきたく存じます」
「が、う……ぐ、くっ」
代償なのか異様に消耗した体力に耐えかねて倒れるトリエント。そんな彼を一瞥さえせず、ニケイアはアインに向き直り優しく微笑んだ。
絶世の美女からの笑み。あらゆる者を魅了する笑顔を向けられて、けれどアインは警戒心を露にする。戦士として、星の端末機構として……分かってしまうのだ。
今の自分では勝てない、と。
間違いなく数段上の、それこそ『剣姫』リリーナに近い領域にいる。
ここに来て最悪の存在が現れたことに、彼はひどく緊張していた。
「くっ……! その天使たちを、どうするつもりだ!」
「実力差を理解しながらも、けれど立ち向かう姿勢……何て素晴らしい。さすがは人間の身にして端末機構に選ばれた、新時代の英雄。部下にも貴方のような方がいてくれればと、思わずにはいられません」
「何を……!」
「どうかご安心くださいまし、英雄殿。我々は大義がなければ誰にも何もいたしません。むしろ『オロバ』と戦う勇気ある貴方たちへとご迷惑をお掛けしてしまったことに、せめてものお詫びをしたいのです」
にこにこと微笑みながらニケイアは告げ、右手を天高く掲げた──歪む空間。彼女が顕現した時と同じく、世界がひしゃげている。
そこに手を差し込み、『第一位』の天使は静かに、その銘を呼んだ。
「審判の刻です──『ルーラー・オブ・ルーラー』」
歪んだ空間から引き抜かれていく、それはナイフだった。柄も刃も一体化している、真っ白なナイフ。一見すると大したことのないものに見えるが、アインやハーモニは目にした瞬間、どうしようもない怖気に身を震わせた。
「っ……信じられない。何て、馬鹿げたナイフ」
「何、それ……何か、ヤバいよそれっ」
ある程度から上の実力者にのみ伝わる、威圧の波動。ニケイア自身の隔絶した実力と重なって襲いかかる絶望的なイメージが、二人の強靭な精神力を以てしてなお、恐怖を抱かせている。
当のニケイアが申しわけなさげに呟くのを、どこか遠く耳にした。
「神剣『ルーラー・オブ・ルーラー』。ああ、怖がらせてしまい恐縮です……貴方たちを攻撃することはないと、我が『神』に誓いを立てましょう。それに、これはむしろ──」
「に、ニケイア様……っ?」
「──むしろ、どこまでも身勝手な身内を裁くためのものなのです」
急に神剣を取り出したことに、トリエントさえも困惑の声をあげ。ニケイアがそれに冷たい微笑みを向けて告げた、次の瞬間。
ルーラー・オブ・ルーラーは無造作に振るわれ、トリエントの背にある翼を根刮ぎ、完全に断ち斬っていた。
「ぅぐぅああああっ!?」
「そんなに戦士でいたいなら、天使をお辞めになると良いのです。誰も止めはしませんよ……まつろわぬ天使など、存在するだけで害なのですから」
「ど、同士討ち……!?」
目の前で唐突に行われた粛清に、ソフィーリアが愕然と声をあげた。傷を癒したかと思えば翼を削いだりと、ニケイアの行動の意図がまるで読めない。
いっそ無慈悲なまでに切り取られた翼を足蹴にして──ニケイアはトリエントの首を掴み、軽々と持ち上げた。
「『第一位』からの最後の使命です『第四位』……堕天し、大人しくこの国の法による罰を受けなさい」
「ニケ、イア、さま……っ」
「そして彼に、『オロバ』を打ち倒さんとする英雄殿に協力するのです。自分一人だけ気持ち良く死ねるなどと、夢にも思わないことですね」
「……は、い。わかり、ま、した」
息も絶え絶えに、ニケイアの言葉に頷く。するとすぐに、『第一位』はそのまま持ち上げていたトリエントをアインの下へと投げ捨てた。
軽々と巨体が舞う。力なく宙から地面へと叩き付けられた難敵の変わり果てた姿に、アインは戦慄を禁じ得ない。
それでも彼は、沸き上がる憤りを胸に叫んた。
「どうして……仲間にこんなことができるんだ!? 同じ天使じゃないのか、お前たちはっ!!」
「お気を悪くされたならば申しわけありません、英雄殿。しかし天使でない方にはご理解いただけないと思いますよ? ……天使とは情や義で繋がるべきものではありません。『神』の下、法と秩序にて結束する一団なのです」
「法と、秩序……!?」
「彼は天使の法を破りました。大義に依らず情にて動き、あまつさえ人間の世に被害をもたらしたのです。挙げ句勝手な死まで選ぼうとして……もはや天使たるには不適格。ゆえに堕天させ、貴方たちへ身柄をお譲りした次第」
おっとりと、暖かくも優しい微笑みが続く。それでいて恐ろしくシステマチックに理屈を述べるニケイアが、どうしようもなく理解し難いものに思えてアインたちは息を呑んだ。
「──無駄だぜ小僧。そいつにまともな話なんか期待できない」
と、そんな時。アインの背後、階段の方から声が聞こえてきた。
不敵な、勝ち気な声だ。次いでニケイアに向け、嘲笑う声音で投げ掛けられる。
「相変わらず血の気の一つも通ってないな、お前らの理屈ってのは。身内を切り捨てるのに何ら迷いが無いなんて、種族としてやはり狂ってるぜ」
「この、声は──」
聞き覚えのあるその声に、アインとソフィーリアは顔を見合わせた。ここにいるはずがない、けれどいてもおかしくはない人物を一人、頭の中に思い浮かべる。
ニケイアもまた心当たりがあるのか動揺はない。ただ一つ、頬に手を当て気になることを呟いた。
「変ですねえ……如何に貴女でも私の『気配感知』を掻い潜れるなんて。何か仕掛けがおありでしょうか?」
『察してくるのう。いかにもわしの『霧化』で覆い隠した。何ぞよう分からんのが急に湧きよったでな、様子見させてもらったわ……しっかしアレじゃな! 予想外におっかないのう、天使ってのは!!』
「『神』以外何にも目に入っちゃいないんだ、こうもなるさ。私がこいつらを種族ごと大嫌いな理由、理解してくれたかな?」
『残念ながらのう。昔はリリーナも、こんなんだったんじゃろうか?』
「え、嘘……この声、この口調。それに『霧化』って」
次いで聞こえてきた声に、未だ回復途中のハーモニが反応する。ホットドッグやサンドイッチを食べ、果実水を飲み──どうにか一回『霧化』して、外傷だけは消し去れた状態で声の方を見る。
階段から次第に見えてくる、その影。薄い霧を纏ったその姿からは、たしかに気配が感じられない。霧によって完全に覆い隠しているのだ……亜人の五感を欺く程の、超高等技術。
エメラルドグリーンの長髪。装飾過多の貴族服。そしてマント──そこに現れたのは、他ならぬ『魔王』その人。
「マオさん……っ!!」
「来てくださったんですね!」
「おーうマオさんですよーっと。小僧に嬢ちゃん、今回ばかりは良くやってくれたよお前ら。そこのハゲ、結構な腕前だったろうに。頑張ったな──ありがと」
アインとソフィーリアににやりと笑う、その少女マオ。
かつて世界を混乱に陥れ、しかして今は『勇者』の元で隠居し、陰ながら新時代の英雄たちをサポートする『魔王』がそこにいた。
そして、もう一人。
「わしもおるぞー。久しぶりじゃなアイン少年、ソフィーリア嬢」
「アリスさん……! どうしてここに!?」
「ん……ハーモニか、お主も久しいのう。いや不肖ながら弟子が気張っとるようじゃからよ、ちと助太刀に来てやったわ! なははははは!!」
ハーモニの師にして『森の館』幹部格メイドの一人。そしてカジノ『エスペロ』オーナーでもある最強最古のヴァンパイア──アリス。
王国からの助太刀二人が今、途方もない力を持つニケイアを前にしたアインたちの元へ合流したのであった。




