共和国魔眼事件
突如として共和国首都上空に現れた、まるで入道雲と見紛うような巨大な蝶。美しくもどこか禍々しさを感じさせる模様の羽根が、空一杯に広がる狂気めいた光景が広がっていた。
まったく異様なその存在──もはや陸地と見紛う程広くなだらかな胴体部の上にて。
『オロバ』大幹部レンサスは上機嫌に口笛を吹いていた。いつもと変わらぬ憎悪の表情はそのままに、口角だけが上がっている。
「くくく……何だこれ。こんなもん後生抱えていたのか、首領の奴め。ご機嫌じゃないかよ、ははは!」
心底から愉快そうな声音。事実、彼にはひどく楽しい成り行きだった。
いよいよ始まる全国議会を、襲撃せんと計画を詰めていた矢先。『オロバ』本部からの呼び出しを受けてとある大陸まで出向いてみれば、自由に使えと渡されたのがこの、正体不明の蝶だった。
大幹部であるレンサスさえも知らなかった謎の生物。『オペレーション・魔獣』の産物かと問うたが、『オロバ』を統べる男──スーツ姿に渇いた瞳をギラつかせるかの首領は、意味ありげに笑うばかりだった。
思い返して嘯く。
「まあ? 僕からすれば魔獣だろうが魔人だろうが構わないんだけどね……にしてもよく創れたなあここまでの化物。前までのペットどもとは威圧感がまるで──」
「創り物ではない、これは」
訝しむレンサスに、固い声が掛けられた。スモーラが後ろを振り向くと、そこにいるのはスキンヘッドの男と包帯まみれの女。いずれも有翼亜人──『天使』トリエントとエフェソスだ。
虚ろな表情でぶつぶつと何か呟く、見る影もなくなったエフェソスはさておいてトリエントの方は苦々しげに顔を歪めている。緊張と、困惑と、怒り。様々な感情を露にした、かの冷静沈着な天使にしては珍しい様子で、言葉は続く。
「元から存在していたものを、貴様ら『オロバ』が勝手に利用しているに過ぎん……やはり、というべきか」
「……この怪生物が何なのか、知っている素振りだな?」
「知っているさ……知っている。これこそが我ら『天使』が地上に降り立った理由。貴様らごとき邪悪に一時、傅いてまで探っていた存在」
険しい顔でトリエントはレンサスと対峙する。戦意はない、殺意ももちろん。けれどたしかな敵意は感じる。レンサス個人でなく、『オロバ』そのものへの敵意。
わざわざ異空間から現世にやって来た『天使』トリエントとエフェソス。突然やって来て『ミッション・魔眼』に協力したいと申し出てきたその目的が何なのか、これまではレンサスがいくら問うても断じて語らなかった。
それならそれで、力だけ利用すると放置していたが──ついに明かされる時が来たらしい。
純粋な好奇心で耳を傾けるレンサスに、トリエントはやはり、頑なな声で告げるのだった。
「『七支天獣』。星の最上位端末機構にしていずれ来る刻、あまねくすべてを導く七支天の御遣い。世界に散らばる七体の内いずれか、貴様らの手により使役されているとは聞いていたが……やはり真だったか」
「あまねく……何? 抽象的な物言いしやがって、ハゲが。さっぱり分からん。もっと下々に分かる言葉で話せってんだよ」
「貴様ら『オロバ』に子細を語るわけがなかろう……知れば必ず世が乱れる。人間も亜人もすべての生物をも巻き込んで、必ず貴様らは暴走する」
まったく理解しがたいあやふやな言動を繰り返す天使。それでもどうやらこの『七支天獣』とやら、よほど危険な代物らしいことはレンサスにも窺い知れた。
鼻を鳴らして返す。
「ふうん? ここに来てそんな態度になるんだ、よっぽどなんだろうなあ」
「少なくとも特定の組織の手によって悪用されて良いものでは断じてない。我ら天使とて、叶うならば捨て置きたかったものなのだ」
「それをどうやってか、あの首領が捉まえたと。そんで慌ててお前らが回収しに来たわけだ、このでっかい蝶々を」
「そうだ。その本質は貴様らの首領とて知る由もあるまいが──これはことここに至って現世にあるべき存在ではない。『天界』へと彼らを転移させ、偉大なる『神』の手元にて封印する。それが我らに課された使命である」
己らの目的をついに明らかにしたトリエントの、瞳は使命に燃えている。彼らが今着陸しているこの『七支天獣』とやらの一角を、どうするか不明にせよ捕獲せんという気概に満ちているのだ。
そこでついに面白がることを止め、レンサスが無表情に問う。
「……それで? そんなお前は今から何をするつもりだ。ここに来て、この土壇場で、僕に弓引くか?」
「……」
「だったら容赦はしないぞ……僕は今日、この日のためにこれまでを生きてきたんだ。 『オロバ』なんぞに魂を売り渡して、おぞましい人体実験なんか繰り返してまで!」
叫びと共に両目が光る。それぞれ虹に光輝く『魔眼』には、いつでもその奇跡の力を発揮できるようにエネルギーが充填されている。
相手は天使トリエント、本来スモーラの彼では到底勝てはしないだろう化け物だ。だが両目に仕込んだ二つの魔眼、『停止魔眼』と『転移魔眼』、そしてそれらを同時に行使することで発動する『防御魔眼』があれば、あるいは互角以上に戦えるのかもしれない。
幸いにもエフェソスは発狂寸前、『焔魔豪剣』アインを殺すことしか頭になくそれ以外については完全に置物だ。ならば今この瞬間、相対するはレンサスとトリエントのみ。
「『姉さん』が一番嫌う僕になってしまってさえ、それでも望み辿り着いたこの瞬間だッ!! いくら天使でも、こればかりは一歩だって譲りはしないぞっ!」
決死の覚悟で吼え、そして身構えるスモーラから、殺意さえ漲り始めたそのタイミングにて──
トリエントはむしろ、苦笑してあっさりと答えた。
「……いや、レンサス。今しばらくはお前に付き合ってやるつもりだ。そう身構えずとも良い」
「……あ?」
「他の天使どもはいざ知らず、私はそこまで薄情ではない。お前の想いが善であれ悪であれ、多少でも世話になったからには恩は返す」
それは、天使としては異端の解答だった。『神』の徒として神命を成し遂げること、それこそが至上にして絶対の行動原理であるのが天使という亜人種だ。
『神』のためならば他のすべて、時には自分の存在さえも切り捨て、裏切り、使い潰すまでに苛烈で独善的なその在り方は、彼らを知る者すべてから忌み嫌われている。
そのような種族的特徴を持つにも拘らずトリエントはもはや、為すべきことから逸脱した存在であるレンサスに対して、協力的な姿勢を見せていた。
目的たる『七支天獣』に辿り着くまでの足掛かりとして利用したことを、それを承知の上で組織には伝えずにいてくれた大幹部に、恩返しをすると言ってのけたのだ。
これにはレンサスも思わず呆けた顔を見せ、困惑を隠せず呟いた。
「お前、良いのかよ。この蝶、このまま使っちゃうぞ」
「構わん、少しばかりならな。どのみち『七支天獣』は本来ならばとある条件が整って初めてその真価を発揮できる端末機構だ。精々風体による脅かし程度の使い方ならば、今一時は目こぼししても良かろうさ」
「……トリエントぉ、お前悪い天使だなー!」
「こう見えて不良でな。もちろん神命は最優先だが、だからと言って他の何もかもを踏みつけることを良しともしない。お前が己の目的と同程度に『オロバ』の目的とやらに邁進しているのと同じだ」
腹の底から面白がるレンサスに、トリエントもまた、ニヤリと笑う。互いに、似た者同士を見る想いだった──それぞれに個人的な目的があれど、それはそれとして通すべき筋は通す。
レンサスは『オロバ』首領への、トリエントはレンサスへの、それぞれ果たしたい恩と義理があるのだ。
ともすれば目的と平行したところで構わない。そう考える程度には、彼らはある種の律儀な性質だった。
共通するところを見出だして笑い合う二人。立場も種族も目的も何もかもが異なる彼らだが、どうしてか妙にウマが合う気がしていたのは、こうした点によるものなのかと合点の行く心地である。
「そういうことなら容赦なく使わせてもらうぜ……そもそもトリエント、お前がいないと『運命魔眼』の方は完成の目処が立たなかったからな! ヒヤヒヤさせるなよ、ったく!」
「それは失礼した……では、私が『焔魔豪剣』を?」
「ああ。まあ、どうせそこのイカれ女が先に突撃して返り討ちになった後の話だろうがな」
少年が顎で指し示す先、包帯まみれの天使の女。エフェソスが、醜く焼けた全身と翼とを震わせて反応する。
包帯から覗くその瞳は憎悪と狂気に彩られている。己の美貌、矜持、そして天使としての象徴である白き翼を損なったことで、すっかり精神のバランスを欠いた女がそこにいた。
「アイン……! アイン、アイン、『焔魔豪剣』っ!! 殺す、殺してやる……!」
「……エフェソス」
「翼はともかく顔だ身体だはしばらくすりゃ元通りになるだろうに、何をそこまでブチギレてんだかなあ」
「元に戻るからという話ではないのさ、レンサス。この子は、身体だけでなく心まで焼かれたのだ。戦士としては甚だ未熟だが、天使としては同情を禁じ得ぬ」
哀れみの視線を弟子に向け、軽くながら擁護するトリエント。戦士が戦場で戦った上での姿なのだから、勝ち負けも含めすべてを真摯に受け止めるべきというのが本音なのだが──長年世話を見て、ついには己と同じ最上位天使の座にまで登り詰めた愛弟子には、そこまで冷淡にはなれなかった。
渋面を浮かべるトリエントに、呆れたようにレンサスが告げる。
「甘い奴。まあ良いさ、お前もそいつに同行しろ。そんで特務執行官やらヴァンパイアをも巻き込んで、乱戦に持ちこんじまえ」
「乱戦にすれば、『焔魔豪剣』も迂闊に派手な攻撃はすまいか」
「そうでなくとも市中だ。避難する人間どものことを考えりゃあの英雄様、前みたいな無茶苦茶はできないさ」
「加えてエフェソスと連携を取り、『焔魔豪剣』と有利に戦えるか……」
彼ら『ミッション・魔眼』遂行チームにとって今現在、もっとも恐るべきは他ならぬ『焔魔豪剣』アインだ。あの広範囲大規模攻撃、マグマを呼び寄せる技だけは何としてでも封殺せねばならない。
そうした時に考えたのが、首都を強襲しての混乱の中、一般市民を事実上人質にしての行動制限だった。新時代の英雄として名高いアインならば必ず、避難する人々を更に混乱させるようなことは避けるはずだ。
その上で乱戦の形に持ち込む。万全のトリエントならば、接近戦に限りアインとも戦えるだろう。そしてエフェソスにはトリエントと連携しアインのみならず他の連中をも牽制する。
ヴァンパイアにしろ特務執行官にしろ、所詮アインがいなければ先のクラバル戦直後に終わっていた者たちだ、ものの数にも入りはしない。
全国議会襲撃に向けてのレンサスの策。それが大成するにあたり、やはり少年はため息混じりにトリエントに示した。
現状、重要なピースの一つであるそこのエフェソスがその様では、成るものも成りはしないのだと。
「連携っても、そいつがもうちょいまともならの話だけどな。おい喝入れろハゲ、お前の弟子ならお前が最後まで面倒見ろよ」
「言われるまでもない……エフェソスッ!! 目を覚ませ愚か者がっ!」
「殺す殺す殺す殺すころきゃいんっ!?」
指示を受け、トリエントの鉄拳が飛んだ。脳天に垂直に打ち立てられた拳が、エフェソスの全身へと痛みと衝撃を走らせていく。
アインを殺すことしか眼中になかった彼女にとって、まったく予想外のダメージ。迷妄も狂気も妄執さえも置き去りにして、素の彼女が気を取り戻した。
「と──り、えんと?」
「そのような無様な姿をいつまで晒すつもりだッ! 貴様は天使としての自覚がないのか!?」
「あ、く……そんな、ことは!」
「大陸蝶に辿り着き、大義達成は眼前にある今! 貴様がその様でどうする!! 何よりあの『焔魔豪剣』程の相手に、乱れきった精神で一矢とて報いられると思うかぁっ!!」
「ぁ──」
師からの一喝。天使として戦士として何よりもエフェソスとして、大事なことを見失っていたことを嫌でも自覚させられて──彼女は瀬戸際、狂気の縁から己が心を復活させた。
瞳に甦る大義の光。包帯まみれは相変わらずだが、けれどどこか美しいものを感じさせ、レンサスが口笛を吹く。
正気を取り戻したエフェソスが、二人に頭を下げた。
「……ご迷惑を、お掛けしました。狭量さゆえにひどく、己を見失ってしまっていました」
「戦いとは何でも起こり得るものだ。相手は何でもしてくるものなのだ、自分と同じように」
「はい……戦士としての不明、天使としての慢心。そのすべてを恥ずかしく思います」
心底から己を恥じるように俯くエフェソス。その姿に狂気はもう、ない。
これならいけるだろう……少なくとも心身のバランスを欠いた状態で無謀にも突撃し、あえなく返り討ちといった末路は迎えまい。安堵の息を吐くトリエントに、からかうように労いの言葉をかける。
「お疲れさん、これならまあいけるだろ。おいエフェソス、お前はトリエントと二人であいつらに乱戦を仕掛けろ。『焔魔豪剣』はトリエントがメイン、お前は特務執行官とヴァンパイアだ。いけるな?」
「はい。我が師トリエントの補佐、十全に為してみせましょう」
「よし……そんじゃあ行くか。狼煙を上げ──いや、この場合は下せ、かな? 空の上だしな」
準備が整った。レンサスがいよいよ告げればトリエントとエフェソスが宙に浮く。二人が取り出した槍から雷が迸り、闘志が漲っていることを示していた。
「合図は稲妻だ。それと同時にテロ屋やってる亜人どもが一斉に首都へ攻め込む……これで大混乱の幕開け。保安の雑魚どもも一日はそいつらにかまけるだろ」
「テロ屋……何人規模なのですか?」
「30人。少なすぎるが仕方ない──この一年、あの特務執行官のお嬢ちゃんがずいぶん頑張りやがったみたいだからな」
「そこまで数を減らしていたのか……まあいい、了解した。エフェソス」
「はい」
槍から放たれる稲妻がいよいよ出力を上げる。エフェソスが大陸蝶から離れ、槍を首都へ向ける。
「決戦です、戦士たち……! 『断罪・マテリアルバスター』ッ!!」
「僕らも出るぞ、速攻だ!! トリエント、議事堂目掛けて突っ込めぇっ!!」
「承知した! 『天誅・アストラルキャノン』ッ!!」
そして、始まりの号砲は撃ち下ろされた。




