現れし者、ヴァンパイア・ハーモニ
馬車駆けること一時間と少し。薄暗い曇天の下、波間寄せる海辺のすぐ側に治安維持局の馬車は到着していた。
開けた場所だ……木々はいくらか見えるものの、遮蔽物とまではいかない。見渡す限りが見通せるその場所に降り立って、特務執行官は呟いた。
「こう見通しが良いのは良いけど、どこにいるんだろう……近くにいるならもう、気配で悟られてるよね」
その顔付きは真剣そのもので、緊張も多分にある。亜人ならば誰しもが持つ技能『気配感知』を意識して警戒を強めているのだから、当然の話だ。
油断なくルヴァルクレークを構え、馬車をちらと見る。御者の保安官たちと、車内からレインが心配そうに見ているのを確認し、声をかける。
「亜人が確認できるまで私の傍に! 確認でき次第、退避できるようにいつでも準備をお願いします!」
「分かりました、特務執行官!」
「エルちゃん、頼むわね……!」
今すぐに待避させては、そちらを亜人に狙われた際に対応できない可能性が生じる。ゆえに、馬車を安全な場所にまで移動させるのは件のオークたちを全員、見定めてからだ。
同行者たちの言葉を受けて、エルゼターニアはいよいよ意識を戦闘用に切り替えた。ボトルホルダーからボトルをいくつか取り出す。赤と青と黄と。
すぐさまルヴァルクレークのソケットに挿入すれば、電磁兵装は秘めたる力を発現させた。
「了解っす──『ルヴァルクレーク"クイックフェンサー"』!」
吹き荒れる蒸気と中空を焼くプラズマ。エルゼターニアの身体中に纏わるそれらが、身体能力を一時的に大きく増強させていく。
『ルヴァルクレーク"クイックフェンサー"』。亜人と矛を交えるにあたり何を置いても真っ先に発動させる、彼女の戦術の起点となる機能だ。
羽のように軽くなった身体をいくらか確認し、少女は一息に跳んだ。上空──少しの弾みだけでも地上から大きく高く離れたエルゼターニアは、空高くから周辺地形を見渡す。
遥か彼方まで一望すれば、遠くにはつい先程まで滞在していた町が微かに見えた。それよりかは狭い範囲を落下しながらも具に観察していく。
それの繰り返しだ。何度かあちらこちらを高く跳んで、周辺を天から見下ろして誰かいないかを確認する。
「……いない? 隠れられる場所も少ないのに」
しかして成果の掴めない現状に、エルゼターニアは訝しんだ。人類の動きは見えなかったのだ。見晴らしの良い、目の届かない箇所もほとんどない場所であるにも関わらず、だ。
ひやりと、恐ろしい思考が脳裏を掠める。亜人犯罪と相対する上で最も懸念すべきは、敵の強さではない。
真に恐るべきは、そう。
「まさか、この地域を離れた……! そんな、捜査が気取られていたの!? それとも、初めから転々としていた!?」
亜人犯罪者が何かしら捜査の手を逃れ、方々でまた罪を重ねる事態。被害者がいたずらに増やされるそれこそが、エルゼターニアの最も恐れていることだった。
どうやってか捜査に感付いたか、あるいは元より方々を彷徨いていて、たまたま犯罪が発覚したのがこの地域だったのか。可能性はいくらかあるが……いずれにせよ既にここから離れていた場合、非常に厄介な展開になると彼女は歯噛みした。
「どこに行ったの……群れに合流しようとしていたなら、また別のオークの群れの元、へ……!?」
そんな時だ。上空から探すエルゼターニアの目が、微かな違和感を捉えた。
海から離れた草原の、とある地点。ごく僅かに、いくつかの何かが横たわっているのを遠目に視認できる。生い茂る草に隠れて具体的な正体は分からなかったが、動いているわけでもない。
どうあれ唯一見つけた異常点だ、まずは確認すべきと馬車の付近に降りる。
「どうかしたの、エルちゃん! 亜人がいたの!?」
「いえ! ただ、向こうの草原に何かがあります! 確認してみましょう、もしかしたら何かの手掛かりかもしれません!」
焦燥と不安が入り交じりながらも馬車へ急ぐ。こうなると今から向かう草原に、何かしら手掛かりがなければ大変なことになる。亜人犯罪者が何ら足取りも掴ませぬまま国内を移動するなど、最悪のケースだ。
逸る心を落ち着かせ、エルゼターニアは御者たちに、ルヴァルクレークの穂先で行先を示した。
「異常が見えたのはあちらの方角っす! 亜人らしき影も見えません……最悪逃亡された可能性もあります、どうか急いで!」
「わ、分かりました!」
「すぐに走らせます、特務執行官、御者台に!」
言われるまでもなく、少女は御者台に飛び乗っていた。ルヴァルクレークを片手に、もう片方の手で車体を掴んで身体を支える。
そのまま馬車が急発進する。せめて何か、事件に繋がるものであって欲しいと願いながらも、エルゼターニアは緊迫した面持ちで眼前を見据えるのであった。
発見した異常点の元へ辿り着いたエルゼターニア以下、治安維持局の職員たちは揃って息を飲み、それらを見ていた。
横たわっていたもの。それがまさしく死体であったためだ。
「こ、れは……そんな」
「オークっすね……五人全員、首がへし折られてます。死んでますね、完全に」
言葉も出ない保安官たちを尻目に、エルゼターニアは死体に近寄ってその状態を確認した。
特徴的な大きな牙、多少腐敗している、緑がかった肌……オークの特徴だ。死体は五人分あり、そのすべてが首を、あらぬ方向にねじ曲げられている。
「考えるに、こいつらが強盗犯っすね……どうしてか殺されてる。亜人の首が揃ってへし折られるなんて、とんでもないっすよこれは」
「人間の仕業ではないわね……」
オークであること、五人であることから間違いなく件の亜人犯罪者たちであろうと断定し、エルゼターニアは更に死体を観察していく。
レインの言うように、間違いなく彼らを殺したのはまた別の亜人だろう。普通の人間に、オークの首を折ることはまず不可能だ。
ひとまず最悪のパターンは潰えたことに、知らずかいていた汗を少なからずの安堵と共に拭う。だが今度は別の懸念が出てきていることに、エルゼターニアは当然考えを巡らせていた。
「誰が、殺ったの……? オークをこうまで一方的に、同じ殺し方で仕留められるなんて、よっぽどの実力者じゃないと」
『えっへへー、お褒めに預り恐縮です!』
「──ッ!? 『ルヴァルクレーク"リパブリックセイバー"』ッ!!」
──不意に耳元で聞こえた何者か、女の声。半ば反射めいた速度で即座に放たれる『リパブリックセイバー』。
接近されていた、こうまで近くに。衝撃的な事態に気が逸れていたにしても、あまりに致命的な隙を突かれたことに背筋を凍り付かせながら反撃するが、しかして手応えはない。
「誰だ! 何者だッ!!」
『すっ……ごーい!』
「何……!?」
全身から冷や汗を吹き出しつつも叫ぶ特務執行官とは裏腹の、明るく朗らかな感嘆。
姿なき声。けれど目を凝らせば微かにうっすらと、白く靄がかっている周囲を、少女は確認した。
『すごい、すごい! 半ば反射かな? でもすぐに反撃してきた!』
「……霧!? まさか、この霧が言葉を!」
『純度の高い戦意、練度! さすがはこの一年、この国を亜人たちから護ってきた特務執行官! ──私にも気付いて、その正体だってもう、分かってる!』
無邪気なまでの声は純粋な喜色に塗れている。微かに見える薄い霧が、やがて一つところに収束して濃くなっていく。
エルゼターニアには既に分かっていた。声の主の言葉の通りだ。霧の主が誰かはともかく、どのような存在か、把握して理解していた。
畏怖と共に、呟く。
「これは……『霧化』!? そんな、これってつまり」
『お見事! いかにも──』
それは自らを霧と変ずる能力を備えた、亜人の中でも際立って強力な種の一つ。人間の血を定期的に摂取することを条件とするがゆえ、人間社会に溶け込んでいるのが特徴とも言える、亜人種。
その名を、『ヴァンパイア』。
「──いかにも私はヴァンパイア。人間さんに寄り添い、共に生きんとするニューエイジ・ヴァンパイアが一人!」
霧が形を整えていく。すらりとした肢体。上等なシルクのシャツと皮のズボンに、黒いマントを羽織った女。灰色の髪を伸ばした、見た目からは年の頃エルゼターニアとそう変わらない印象を受ける、幼げな顔立ち。
けれど圧倒的な実力を備える、そんな気配を放つ女が──治安維持局員たちの、特務執行官の眼前に現れていた。
「名をハーモニ! よろしくお願いね、特務執行官さん!」
「ハーモニー……? いやそれよりも! あんたがこのオークたちを殺したんすか!?」
「いかにも! 下らない真似して人間さんに迷惑掛けて、しかもまた変なこと企んでたからね! バキッと殺りました!」
「……!」
あっさりと殺人を認め、朗らかに笑うヴァンパイア・ハーモニ。あまりにも無垢で無邪気なその笑顔からは、命を奪ったことへの何ら感慨も見えない。
明らかに殺し慣れしている。そのことに一気に危機感を強めたエルゼターニアが、治安維持局員たちの乗る馬車に鋭く声を飛ばした。
「馬車、逃げて!! こいつヤバイっ!」
「は、はい!!」
「エルちゃんは!?」
「いいから! 早く離脱してっ!!」
常の敬語さえ取り払った、決死の叫び。心配するレインさえ振りほどくようにルヴァルクレークを構えれば、一も二もなく御者の保安官ちが馬をけしかけ、遥か後方へと下がっていく。
ハーモニはそれを見ていた。まさか追いかけるかとも思い備えるエルゼターニアだったが、彼女はすぐに馬車への興味は無くしたようで、またも視線を向けてくる。
感心したように、笑うヴァンパイア。
「……ふっふーん、良い判断。すごいね、素敵。巻き添えにしないこと、それが一番だものね」
「何が……目的っすか。共和国で何をするつもりなんすか!?」
「知りたい? ふふふーん。でもまだ、ダメだよー」
悪戯げにウインク。そして膨れ上がる、闘志。殺意はないがそれでも気圧されそうな重い戦意が、いよいよ顕在化する──最初から分かっていたことだ。この女は、どうしたことかエルゼターニアと戦いたがっている!
「ようやく会えた特務執行官! こんなちっちゃな子なのは驚きだけど、その瞳は一級の戦士! 嘗めてかかっちゃ失礼だ!!」
喜びを露に、まるで世界中に示すように唄うように叫ぶヴァンパイア。
どこか清々しい声音だが、相対するものにとってこれ程恐ろしい宣告はない。殺気がなくとも死刑宣告めいた気迫に、負けてたまるかとエルゼターニアはルヴァルクレークを握り締める。
「──解り合おう! 互いを知るには戦いが一番っ! 殴り合って傷つけ合って、その先にお互いを芯から理解し合うそれが戦いの骨子!」
「……バトル、ジャンキーッ!」
あまりにも異様な発言と思考回路。わずかなやり取りであっても特務執行官には既に、ハーモニの本質が多少なりとも掴めていた。
バトルジャンキー。単純に戦うことを愛している、迷惑な人種。眼前の可憐でさえあるヴァンパイアからは、そんなどうしようもない手合の匂いがしたのだ。
「偉大なる我が師、ヴァンパイア・アリスより受け継ぎし技の数々! どうかその身を以て味わって欲しいな! 貴女のその鎌の味も、私に刻み込んでくれて良いからさぁっ!!」
「くっ……!」
「互いの血と肉と、その心まで! 求め合おうよ、特務執行官さん!!」
そしてその予感を肯定するように──
ヴァンパイア・ハーモニは、エルゼターニアへと突撃していった。




