素晴らしき別れとまだ見ぬ災厄と
それから数日間、エルゼターニアはマオと二人、心行くまで温泉村でのリフレッシュを満喫した。
数種類ある温泉すべてを堪能し、美味しい料理に舌鼓を打ち、夜ともなれば暖かいベッドでぐっすりと寝る。そんな日々を過ごしたのである。
心身ともに溜まっていた疲労やストレスが、一気に解消していく心地のよさ──凝り固まっていた諸々の淀みが消え去っていき、エルゼターニア本来の生き生きとしたエネルギー、溌剌とした活力が蘇る。
いかに熱意を持って意気も高く仕事に臨んでいたとは言え、この一年間、彼女は完全にオーバーワークだったのだ。そのような状態ではポテンシャルをフルに発揮することなど当然難しい。
「……嘘みたいに身体が軽いっす。精神面も、すごくクリアで澄み渡ってて」
「適度な休息が肝要だって話だよ、エル。今度からは最低でも数日に一回、仕事から離れて好きなように心身を休める日を作るんだね。そっちのがより効率よく動けるぜ」
「かも、知れませんね……今ならあの天使にだって、もう少し食い下がれるかも」
それまでならば使命と責務のため、頷くことは無かったであろうマオの言葉。しかして今は肯定できてしまう程に、この数日で完全にリフレッシュした身体と心の調子は最高だった。
こうなれば嫌でも思い知る、休息の重要性。帰ってから特務課のボス、ヴィアに相談してみるかと考えながら彼女は、友人に向き合った。
「……それではマオさん。この数日間、本当にお世話になりました。共和国の『特務執行官』としても、友達としても感謝しています」
「何を言うかねエルゼターニア。私こそ、とっても楽しくて意義のある旅行にしてもらった。世話になったね、我が友よ」
二人、惜しむ別れをそれでも告げる。休暇の最終日、ホテルをチェックアウトしてからの村の手前。後はそれぞれ帰路につくだけといった状況での挨拶を、彼女らは交わしていた。
朝の陽射しが暖かく、けれど気温は低い、朝。段々と冬めいてきている季節の移り変わりを感じながらも、更に言葉を重ねる。
「私にも色々用事があるし、何より帰る場所、愛しい家族たちがいてくれるからさ。そう頻繁には会うこともなかろうが……いつかまた、こうして遊ぼうぜ」
「はい、是非。きっとその時には共和国も、『オロバ』さえも撃退して平和になっていますから」
「無理だけはするなよ? きっと直に、君には助けが入るから。自分の命を最優先にしてくれ……頼むぜ? そこらの有象無象なんかより、私には君の方がよほど大切なんだ」
本気の心配を覗かせるマオ。どうにもこの、無茶をしがちな特務執行官の姿は不安ばかりを抱かせるのだ──身近にかつて、今の少女以上の過酷な環境の中で心を磨耗させた例もいることから、余計に気にかかってもいる。
エルゼターニアも幾度とない忠告を受け、苦笑めいた笑みをこぼした。そんなに無理をする女だと思われていることが申し訳なくもあり、しかしここまで気を配ってもらえることが嬉しくもある。複雑な心境だ。
とはいえ彼女とて好んで死に急ぐ趣味もない。ゆえ、マオにしっかりと応える。
「大丈夫っすよマオさん。自分のこと、大事にしますから。共和国に生きとし生ける人間と亜人のため、『共和』の理念のため……適度に休みを挟む方がきっと、長期的には良いっすもんね」
「それだけじゃない。君の未来、これから先の人生にだってきっと悪いことはない。自分の幸せだって追い求めなよ。ありとあらゆる命に与えられた、それは権利であり義務だ」
「はい!」
元気よく頷き、そして別れの時が来た。
来た時と同じ馬車に乗る──やはり同じ治安維持局員の男女が御者をしていた。彼らにも会釈し、最後の挨拶を告げる。
「それではさよならっす、マオさん! いつかまた、どこかでお会いしましょう!」
「ああ、エルゼターニア……君のこれからの人生! 儚くも力強いたった一つの運命に、どうか幸福の輝きがあらんことを!」
かくして馬車が去る。名残惜しくも彼方へと姿を消していくそれを、いつまでも手を振り見送ってマオは一人、呟いた。
「気持ちの良い、胸のすくような子だったな。エルゼターニア……今度会う時はさて、私の素性がバレているだろうか」
その言葉は悲観的だ。『魔王』として、かつて人間世界を地獄に変えた張本人であることをあの少女が知れば、きっと今までのように笑い合うことも叶うまい。
今でもその行いを否定する気はない──この世に生まれた意味であり役割、星の大義を背負っての行為なのだ、否定する理由がない──にしても、せっかくできた友人を、いつか失ってしまうことへの悲しみは去来していた。
二、三回、頭を振って気を取り直す。
「さーて、私も帰ろうかね! とりあえず館に帰って皆と、あと王城でローランに報告だな。そんでもって小僧と。ふっ、ふふ。何のかんのやることは多いね」
帰るべき場所、迎え入れてくれる場所を想う。どんなになっても、『彼』の近くにいられるのならばそれが一番なのだ。改めて、マオは華やいだ笑みを浮かべた。
「そうとなればさっさと行くか。『テレポート』!」
そして発動する、転移魔法『テレポート』。どれだけ離れた距離でさえ一瞬に移動する、彼女の長距離移動における常套手段。
この温泉村に来る時も彼女は、この魔法を駆使していた。帰りも当然同じだ。
次の瞬間にはもう、彼女の姿は跡形もなく消えていた。王国南西部は大森林の奥深く、『森の館』へと帰還を果たしたのである。
かくして温泉村での事件は完全に終結を迎え、後にはいつも通りの日々を過ごす、村の風景ばかりが残るのであった。
共和国南部のとある村、のどかな牧場風景の片隅にて──
『オロバ』に与する天使トリエントは、住人の一人である男と話していた。
「では、もうじき動くのか」
「はい」
頷く男。上下黒の服を着た、青白い肌に若い顔付き。白髪を後ろに流し、細目でトリエントを見ている。
温和な笑みは穏やかな印象を与えているが──その実態は『オロバ』が大幹部レンサスに従う三人の『ミッション・魔眼』遂行者の一人。すなわち亜人を正体とする者であった。
「私にはなすべきことがある。私を信じてくれる彼らと共に、理想を貫く使命が」
「そのためにレンサスに、『オロバ』なぞに従ってか。手段を選ばんな?」
「貴方には、貴方たちには言われたくありませんね……エフェソスさんはお元気ですか?」
皮肉めいたトリエントの言葉にも穏やかに返す。男がエフェソス、もう一人の天使について触れた途端、天使の顔が憂いに染まった。
「……?」
「エフェソスは負傷して療養中だ。もう半月すれば復帰できるだろうが……」
「それは、また。それ程の相手がいたと言うことですか」
「ああ。『特務執行官』ともう一人、『魔王』がな」
その言葉に、細目が大きく見開かれる。男にとっても衝撃的な言葉だった──魔王。
世界戦争を引き起こした張本人にして、この世界そのものの意思を具現したシステム。共和国の秩序と安寧が今のように乱れることとなった元凶。
「まさか、そのような……特務執行官というのは最近よく耳にしますが、その者に付いていたと?」
「どうしたことかな。見た目は大したことのない小娘だったが、用いる技は凶悪の一言だ。エフェソスがものの数秒とかけず瀕死に追い込まれるのを、私は見た」
「魔王と交戦したのであれば、エフェソスさんが負傷するのも無理からぬことですね」
「特務執行官も中々の手合いだった。奴がこの国の亜人どもを取り締まっているというのも、なるほど頷ける程度にはな」
特務執行官を褒めつつも、やはり不可解そうにトリエントは首をかしげた。
魔王が、あの特務執行官と繋がりを持っていたなどという情報はこれまでにないものだ。王国南西部にて『勇者』と共に暮らしていることまでは掴んでいたのだが、まさかこの国の、あのようなタイミングと形で介入してくるなど『オロバ』の誰しもが予想できなかった。
「何故、特務執行官に力を貸した……? そもそもあの地域にいたのはどうしたことだ、まさか観光旅行でもあるまいに」
「『オロバ』の動きを探ろうとしていたのではありませんかね、トリエントさん。『魔剣騒動』もありましたし、こちらを警戒していてもおかしくはないでしょう」
「『プロジェクト・魔剣』か」
かつて王国南西部にて発動し、『魔剣騒動』という形で鎮圧された計画『プロジェクト・魔剣』。
組織が平行して進めている四つの作戦の一つであったが結局、失敗に終わったそのプロジェクトは、その途上において勇者、魔王、名だたる冒険者、そして王国そのものでさえ相手取るという最悪に近い状況に陥っていたと報告がなされていた。
『ミッション・魔眼』責任者のレンサスや『オペレーション・魔獣』のミシュナウム、『魔人計画』のスラムヴァール──果ては『オロバ』を創設した首領本人でさえ参加して、それでもなお劣勢に追い込まれたという。
挙げ句プロジェクトの責任者バルドーに加えてミシュナウムまで命を落としたのだから、結果を見れば組織にとって暗澹たる有り様だったと言う他はない。
「レンサスは魔王は元より、勇者をひどく警戒していた。奴がこの国に来た時点で、一時進捗を停めて国外へ逃げるとまで言ってな」
「それは、意外ですね……彼がそこまで畏れるなど、想像も付きませんが」
「口振りから直接、相対したことがあるのだろうな。化け物だのこの世にいてはいけない次元だのと、ずいぶんな物言いだった」
「事実ならば恐ろしいですね」
トリエントから見ても異様に映る、レンサスの勇者への怯え。王国南西部にてかの存在と相対したとは報告にもあったが、書類での淡々とした文章からではその脅威というものは中々、感じ取りにくかった。
男の方もいまいちピンと来るものもないようで、少しばかり二人で首をかしげる。
「……まあとにかく。そこまで言う勇者がこの国に現れないことを祈りつつ、私は私でことを起こすしかありませんね」
「うむ。なるべくならば特務執行官にも気取られるな、とのことだが」
「それは難しいでしょうね。何しろ私は亜人で、これから共和国で犯罪を起こすわけですから……勇敢で高潔な守護者と敵対してしまうのは折り込んでおかなければ」
肩を竦める、男。どうあれ『オロバ』の一員として動くのであれば、特務執行官と対立するのは避けられない。国もそこまで甘くはないだろうというのは、天使たるトリエントにも分かる話だ。
「了解した。私の方も連絡役はしつつ、随時手を貸そう」
「助かりますよトリエントさん。ありがとうございます」
「うむ、それでは健闘を祈る──クラバルよ」
ゆえに、可能な限りのサポートを行うと確約する。それに応える男、クラバルの顔が密やかに笑顔を浮かべていた。
次なる事件は、すぐそこまで迫っていた。