序章 父の背中
銀龍討伐作戦、前夜。
地下軍隊の新米兵士、ジーク・ジェダは兵舎でいつもの夢を見た。
灰色の鎧を着た騎士が、顔をこちらに向けず、広い背中だけを見せて物語る夢だ。
『正義とは何か? それは、この世界から我が身を差し引いてもなお残る……残したいと思える、理想だ』
ジークは溢れる涙とともに目を覚ました。ちょうど窓から差す月の輝きが顔にかかっていた。それが明るくて目を覚めてしまったのだと思いたかった。
ちょっとでも体を動かせば揺れてしまう簡素な兵員用ベッドから起き上がると、夜風の圧にさえ震える薄いガラス窓の前に立つ。
ボロ布といっていいみすぼらしい肌着だけを身につけた我が身を反射させる、そのガラスの向こう――煌々と照り映える満月が見えた。
十八になった今でもなお、ジークは五歳の時に見た光景を鮮烈に脳裏に保っている。それが時折、夢となって再現されるというわけだ。
父上の背中を最後に見た、あの日の記憶だった。
※
その時分、ジークは幼年院に入っていて戦争のことなど何も知らなかった。生まれ育った祖国である聖域国家が隣国とどんな関係にあるかも知らなかったし、正規軍にひたすら憧れていた。
その上、父上は高名な騎士ときく。休日には自宅となる屋敷に部下を引き連れてパーティーを催すことがほとんど。部下と名乗る彼らは決まって父上の武勇伝を幼いジークに語ってくれた。
いま思えば上官に対する媚びだったのかも知れないと思うが、しかしそれにしても彼らの瞳はキラキラと輝いていた。
だからこそ、今でも思う――父上は立派な騎士だったのだ。
その父上が、戦乱に行ったきり帰ってこなくなった。
戦死報告は届いていない。当然、死体もない。それでも父上は帰ってこなかった。母上も何故か失踪していて、屋敷は五歳のジークと老年の執事だけ。
しかしジークはけして、泣かなかった。正確に言えばその時にはすでに流すべき涙が尽ききっていたのだ。
父上が最後の出陣をする直前、ジークは呼び出された。
『これは負け戦になる。俺はもう、二度と帰らないだろう』
「そんな……」
ジークはその言葉をきいたとき、すでに涙ぐんでいた。
父上が戦に出るとき、ジークはいつもさみしい気持ちでいっぱいになる。いくら父上の武勇伝を部下たちから聞かされていて、その強さを知っていてもなお、いつもいつも不安になってしまう。人が戦に向かうということはそういうことなのだと、ジークも流石に把握していた。
父上は、涙を流すジークの頬を一度やさしく撫でると、すぐに立ち上がり、くっと背中を向けてしまった。
「どうして戦になんか行くのですか、父上? ずっと家にいて、一緒に狩りをして、ずっとずっと、一緒に遊んで」
『それでも、俺が行かねばこの国が滅ぶ』
「国なんか、滅んでも……僕は父上と遊べれば、それで」
『それでは正義を果たせない。すまない、ジーク。俺は正義を果たしに行く。俺の命を用いてな』
「正義って、そんな正義って、何なのですか。僕よりも、大事なものなのですか。父上……」
その日もまた満月の夜だった。屋敷の玄関は薄暗かった。それなのに父上が行こうとする道は光り輝いていた。偶然にも昇っていた満月の輝きが、死に向かうだけの父上の行く先を強く照らしていたのだ。
そんな奇跡的な光景を瞳に、脳裏に焼き付けたジークは、それからまるで呪いのように父上が夢に出てくるようになった。
「じいや! 僕は、騎士になりたい! 正規軍に入って、この国を護りたい! 父上のように!」
そう執事のじいやに叫んで宣告したのはいつだったか、ジークは覚えていない。
父上が宣言したとおり戦から帰ってこなくて、母上も消え去ったと知ってひと月あまりが経ったときだったか。
その頃、ジークはじいやと二人だけで広い屋敷で生活していた。家事全般はすべてじいやがやってくれて、ジークは年相応に遊び回るだけでよかった。
しかし遊びにも飽きてきた頃、ジークはついに夢をもつようになった。幼少の頃から憧れてきた、あの騎士になりたいという夢だ。
『ほうほう。ならば軍学校に入るために、お勉強せねばなりませんなあ』
じいやはジークが夢を語るとき、いつもそう言って現実を教えてくれた。
「え? 勉強……苦手なんだよなあ」
『それでも、やるのです。まさかその程度の志だとは、おっしゃらないでしょうな?』
「……ああ、そうだな。じいや! ああ、やってやる!」
ジークはそうして幼年院の頃からじいやに勉強を教えてもらい、五年間を過ごした。
五年間の勉強を経て、十歳になったジークは幼年院を卒業して。
そして念願の軍学校に入ることが叶わなかった。
「じいや……何だよ、それ。僕が学校に行けないって、どういうことなんだよ!」
『すみません、こればかりは……わたくしのミスでございます』
じいやは年甲斐もなく深々とジークに頭を下げた。それでジークはじいやに対する罵詈雑言のすべてを飲み込んだ。
本当にどうしようもないのだと、悟ったからだ。
試験に落ちたわけではなかった。そもそもジークは入学試験さえ受けていない。
入学金だった。
家事全般をしてくれるじいやは、働くことができなかった。ジークの世話をしたり、毎日の食材を工面するだけで精一杯だった。生活費については父上の遺産で十二分にまかなうことができたが、それでも入学金を一括払いする金額には届かない。
「クソッタレ!」
ジークは叫び、そして家を出た。
屋敷を出て、敷地から抜け、夜の街に繰り出した。思えば初めてだった、夜にひとりで出歩くなんて。
目指す場所はあった。
幼年院でも噂にあった地下軍隊。その入隊試験は、とある酒場で開かれているらしい。
噂の真偽は不明。しかしジークはただそれだけを頼りに、夜の街を走って酒場という酒場に顔を突っ込んだ。
『何だこのガキは!』
『しょんべんたらすなよぉ』
『あらまあ。かわいいこと』
数々の大人たちから指を差され、嘲笑され、あるいは殴られ、ボロボロになった先。
走り疲れて、噂はやはり噂でしかなかったとわかったような気がして。身も心もすり減って、思わず酒場の壁にもたれて休んでしまった。
生まれて初めて、ジークは心の底から怒り狂っていた。悔しかったのだ。
試験のためにこれまで勉強を重ねてきて、実技試験のための稽古もじいやにつけてもらっていた。
文武両道を目指すその道のりは、十歳にも満たないジークには辛く、何度も心が折れそうになった。
それでもつづけて来れたのは、じいやがいつも焚き付けてくれたからだった。
『この程度で諦めるほどの、弱い志ではありませんよな?』
「……へっ。当たり前だろっ!」
意地悪く微笑むじいやは、いつも優しく手をさしのべてくれて。その手を掴んで、ジークはいつも立ち上がってきた。
それなのに、試験の前日になってじいやは“諦めろ”と迫ってきた。いつもいつも手を差し伸べてきたじいやが、突然、その手を翻してきたのだ。
入学金が足らなくてごめんなさい?
用意がどうしてもできなかった?
ふざけるな。
打ち明けるにしても、どうして試験の前日っていうタイミングなんだ。もっと前に言ってくれたら、そうだ、稽古の最中にでも言ってくれたら、諦めることだってできたはずなのに。
すべての稽古をくぐり抜けて、試練を超えて、あとは勝負するだけという時になって諦めろと言われても、できるはずがない。
簡単に諦めるだなんて、その程度の志でどうすると言ってきたのはじいやだ。そのじいやが、突然、いままでの言葉とは真逆のことを迫ってきた。
これに怒らずしてどうする?
思えば思うほど悔しさが募り、ジークが思わず酒場裏のゴミ捨て場のカゴからはみ出てきたビンにキックを入れた、その時だった。
『十ばかりの小僧めが、何をそんなに憤っている? 父上から目当てのオモチャを買ってもらえなかったのか?』
路地裏の影から突然、そんな声が放たれた。
驚いたジークは反射的に「誰だ!」と叫んでしまった。酒場の喧噪が漏れて聞こえてくるさびれた路地裏の闇から、ぬっと声の主が姿を現わした。
灰色のぼろ布をかぶって夜の寒さを堪え忍んでいるらしい、みすぼらしい男だった。伸び放題になっている長い髭に包まれた口をもしゃもしゃと動かし、そしてその浮浪者らしき男は問いかけてきた。
『その年であれば、もうすぐ軍学校への入学試験もあろう。お勉強とお稽古はどうした? まさか辛くて逃げてきたのか?』
こちらの事情を何も知らないで、勝手に子ども扱いして一方的にあざけってくる。
ふざけるな……ジークの怒りはついに頂点に達した。
ちょうどいい。酒瓶を蹴ったんじゃ満足できなかった。お前を殴って気を晴らしてやる。
「うるさい!」
ジークは拳をかたく握って、弓のように肘を張る。
『ほう。威勢はいいようだな』
浮浪者はニヤリと口角をつり上げた。直後、ジークの拳がまっすぐ飛んでくる。
はたして、浮浪者は思い切り吹き飛ばされていた。ジークの鉄拳が彼の頬にブチ当たり、全身が回転、瞬時にゴミ捨て場に突っ込まれる。
酒と残飯まみれになりながら、しかし浮浪者はまったく変わらない口調で言い放つ。
『その拳、ただのガキのものじゃああるまいに。それは、こんなつまらない使い方をするためのものか?』
先ほどとは変わらない口調で放たれた、しかし打って変わって説教臭くなったその言葉に、ジークは心の底から憎しみを込めて、全身全霊で浮浪者を睨み付けた。
「うるさい。できなかったんだよ。お金がなくって、入れないって、言われたんだよお!」
知らずに流れた涙が視界を滲ませた。
確かにこんな薄汚い路地裏で、みすぼらしい浮浪者をいじめるために、稽古してきたわけじゃない。
本当につまらない。この現実は腐っている。諦められるわけがない。だから藁にもすがる思いで噂に飛びついて、こうして夜の街にやってきたって言うのに。
しかし実際していることは、浮浪者を殴っているだけ。
握った拳から力が抜けて、がっくりと両膝を地面につけたジークはその時、絶望した。
ようやく現実を受けいれたのだ。やはりこれは、どうしようもないことなのだと。
どんなに抗ったって、無駄なんだ。試験は明日。お金はすぐに手に入るものじゃないことくらい、まだ子どもの自分にだってわかる……ジークは泥水に両膝のスラックスが濡れていくのも構わず、両手を握りしめた。爪の奥まで泥が入ってきた。
『その悔しさを晴らしたいなら、とっておきの場所を教えてやる。一度しか言わない、聞き漏らすなよ』
浮浪者のその言葉は、ジークには遠い世界から送られてくる魔法の言葉のように聞こえた。真実、それは耳で聞いたわけではなく、頭を直接ゆらして知覚したような気がした。
まさしくそれは、神様の言葉のような。
泥から手を離して体を起こし、見上げたジークは、しかし路地裏の闇と汚らしい残飯を瞳に映しただけだった。
あの浮浪者はどこにもいない。周囲を見回したが、やはり誰もいなかった。
首をかしげて、しかし、ジークは虚ろな足取りでその場所に向かう。
もう二度と絶望したくはなかった。辛い現実を受けいれた以上、もう夢を追いかけたくなかった。夢が叶わないと理解せざるを得ない圧倒的な諦観を、もう受けいれたくなかった。
それでもジークが足を向けてしまったのは、五年間ずっと夢に出てきた父上の、あの言葉があったからだ。
「正義とは、何か」
いつもじいやから洗濯してもらうジュニアスーツがボロボロになっているのも構わず、ジークは泥水の中から立ち上がった。
「それは、この世界から我が身を差し引いてもなお残る……」
夢が破れる恐怖を抱えながら、それでもジークは、それが浮浪者の言葉と知りながらも希望を抱いてしまう。
「……残したいと思える、理想」
絶望してもなお、くすぶりつづける夢の鼓動が、まだ止まってくれないから。
冷たい現実を理解して、どうしようもないとわかって、それでも諦められない自分を、殺しきることができないから。
ジークは一歩、一歩、期待と恐怖とが入り混じる、ふらふらとした頼りない歩調で、とある酒場に辿り着く。
その日、ジークは聖域国家を影で守護する誇り高き地下軍隊への入隊試験をクリアした。