5・・・狂乱
迷宮の鏡に包囲されたホールで、紗映子は立ち竦む。蒸し暑いくらいのはずなのに震えが止まらない。
牧宮はそれを怪訝に思っていたようだったが、鼻を鳴らすと、懐中電灯を床に向けてしゃがみ込んだ。そこは事件現場だ。ここで何かがあったのだ。牧宮の斜めうしろに立ち、紗映子は小刻みに震える左手で懐中電灯をかざす。牧宮の手元にその明かりを当てる。
右手は――右手は、横腹にあるホルスターの拳銃に添えられていた。
紗映子に自覚はない。
「不憫なもんだ」
牧宮が言った。
「たった一夜で世界が変わっちまったんだからな」
「日高のこと……ですか」
「ああ。彼女も、その家族もだ」
「…………」
やはり牧宮は感傷的に過ぎる気がする。普段の彼は、良くも悪くも多くを語らない。仕事に支障が出るほどに語らない。被害者や加害者への入れ込みようが、この事件に限っては強すぎる気がする。
気持ちは分かる。
あまりにも奇異な事件だ。人知を越えた事件だ。平常でいられない気持ちは紗映子も同じだ。
「先輩……『逆』って、そういうことですか?」
「あん?」
「だからさっき言ってた噂の話です。ミラーハウスから出てきたら別人になる――のではなく――別世界になっているっていう。たしかに、被害者の日高にとってはここでの事件が周囲を一変させてしまった」
――妹さんの事件によって先輩の世界が歪められたように。と、紗映子は胸のなかでつぶやいた。
「でも、じゃあ、加害者たちには何が起こったんでしょうか。彼らは常習犯だった。とすれば、事件の日にここで起きたことは――犯した罪は――こう言うのは何ですが、彼らにとっては日常の範囲内だった。けれど、彼らは被害者を置いて逃走した――ですよね?」
そうだ。結局疑問はそこに収束される。
何かがあった。
だから逃げた。
「――ああ、そうだ」
やや間があって牧宮が答える。
彼はしゃがんだまま、床のタイルを撫でている。
その背中に向かって紗映子は続ける。
「これまでも同じだったんでしょうか――つまり強姦ののち被害者を置き去りに」
「いや。他の被害者からの証言では、放置はしなかったそうだ」
律儀に街まで連れ帰っていた、のだという。
たしかにここに置き去りにしては、事件が無駄に大きくなる可能性がある。歩いて山を降りるにはかなりの時間がかかる。自暴自棄になった被害者が行方不明になったり、あるいは気の迷いから自ら命を――
命を、断つかもしれない。
「では、彼らにとって想定外の何かが起こった。ここで――あるいは、車に乗り込むまでの間に。そして逃走した」
「そうだな」
紗映子は牧宮の背中を照らす。シャツ越しにも分かる筋肉質の背中。そして太い首――うなじ。
あの映像を思い出す。
日高が増えるその様を。
彼女の黒髪を掻き分けて、頸から産まれたもう一人の彼女を。
「気が動転していたんでしょうか。それにしても、とっさに逃げるなら普通は見知った道を行きますよね。余程のことがない限りは」
余程のこと――人知を越えたおそろしいこと。
もう一度ホールを見渡す。長方形の鏡に囲まれた部屋。
1枚の鏡に映った紗映子の像は、向かいにある鏡に映り込み、さらに斜めにある別の鏡が、紗映子の姿を模写する。そうして、鏡の世界がどこまでも続いている。
その中央部で日高は組み伏せられ、犯された。ちょうど牧宮がかがんでいる辺りで。憔悴しきった彼女の耳元で、誰かが囁いたかもしれない。誰にも言うな、いいか、弱みは握っているんだ――。
そして、嗤っていたかもしれない。彼女の悲惨な有り様を見て。
「先輩。牧宮先輩。日高が保護されたのは、どこなんですか」
「――ここだ」
やや間があって、牧宮が答える。振り向かない。
「出頭してきた犯人が供述した。それで駆けつけた警官が発見したんだ」
「じゃあここで――」
紗映子は言う。
「――ここで増えたんじゃないですか、日高は」
牧宮は答えない。
絶望に沈んだ被害者が、増える。
4人はそれを目の当たりにする。そして逃走する。あんなものを見れば、誰だって平常ではいられないだろう。十分にあり得る話だ。
なぜ増えたのかは――分からない。
どうして増えた日高は死んでしまうのかは――分からない。
増えたその1人はどこへ行ったのか。まだどこかを、暗い森をさまよっているのか。死んでいるのか。
そして牧宮はなぜ黙っているのか。どうして紗映子を連れて来たのか。ここで何をしているのか。ここはなぜこうも恐ろしいのか。ここには何があるのか。分からない――分からない――分からない。どうしても。
紗映子には何も――分からない。
それが悔しい。
知りたい。どうしてでも知りたい。この事件を、牧宮の考えていることを。
「どうした」
牧宮がゆっくりと立ち上がる。すると周囲の――鏡に写った牧宮も、全員立ち上がる。囲まれている――懐中電灯を当てられる。見えない。何も見えない。牧宮の顔も見えない。
「どうした――祥子」
しょうこ?
祥子とは誰だろうか。彼の妻の名だろうか。それとも娘か。あるいは――。
「安心しろ。俺が解いてやる。解放してやる。その苦しみを」
おかしい。
何かがおかしい。
彼は何に囚われているのだろうか――知りたい。
「理不尽だ。何もかもが」
静かな、それでいて力強い声で牧宮は言う。
「俺は許さない。なあ祥子――痛かったか、苦しかったか。なぜ裁けない。お前の無念は。どうすれば」
ぬっと手が伸びてくる。牧宮の右手だ。紗映子を掴もうとしている。とっさに紗映子はホルスターから拳銃を抜き放つ。銃口を牧宮に向ける。
「――なんのつもりだ、日高」
今度は彼女の名だ。彼は一体どこをさまよっているのだろうか。妹を失った6年前か。日高美奈が犯された1月前か。この現場に足を踏み入れたそのあとか。
――知りたい。
この寡黙な男がなぜ取り乱すのか知りたい。伸ばした右手で自分をどのようにするつもりなのか、知りたい。犯されるのか、殺されるのか――駄目だ。死んだら、死んだら、分からないままじゃないか!
紗映子の左手から滑り落ちた懐中電灯が、床から2人を照らす。鏡に対峙する2人の像が写し出される。
鏡の中で虚像たちがさざめく。
なぜ。
どうして。
知りたい。
本当の――
「……それは、冗談では済まんぞ」
牧宮の低い声が、いっそう強く響いた。
いつの間にか、紗映子の握る拳銃は準備を済ませていた。標的を撃ち抜く準備を。安全装置は解除されてある。紗映子の手が汗ばむ。その指が、引き金に乗せられる。両手が銃のグリップを強く握りしめる――震える。
「おい、北原――」
牧宮が踏み出す。周囲の像も紗映子に詰め寄る。
限界だった。紗映子は照準を合わせ、間違いなく合わせ、引き金を絞った。発砲音。放たれた弾丸が牧宮のこめかみに命中する。牧宮の頭部が砕け、ガラスの砕け散るけたたましい音が響いた。
「な――」
牧宮はさすがに肝を冷やしたらしい。
紗映子の放った弾丸は、彼女から見て右方向の――牧宮にとって左方向の――壁、つまり鏡を撃ち抜いていた。鏡に映っていた牧宮の側頭部を撃ち砕いていた。
「なにを」
「鏡――」
紗映子は叫ぶ。
「鏡を壊しましょう、先輩。ここは良くない、きっと良くない!」
「おい待て」
「先輩の指示じゃないですか、何を撃つかはお前が決めろって。ここは――特に良くない。そんな気がするんです」
「気がする――そんな」
「鏡に映るんです――」
紗映子は言う。
「――自分が」
「自分? そりゃあ当たり前だろう」
「ここは、迷路の中でも特に鏡が多い。合わせ鏡の比じゃないくらいに、です。永遠に反射を繰り返す部屋。反射して――増えている」
紗映子は荒くなった息を整えながら話す。
「『別人のようになって出てくる』――それがこのミラーハウスにまつわる噂でしたよね。でも、さっき先輩が言ったようにやっぱり『逆』なんじゃないかって思うんです」
「逆――」
「はい。より『本人らしくなって出てくる』のではないかと。つまりですね、ここでは自分の願望が増える――増幅されるのではないでしょうか」
「なんだそれは。何を根拠に」
「――先輩、ちょっと最近おかしくないですか」
「――なに?」
「執着し過ぎではないですか、と言っているんです」
紗映子は、一旦ためらってから続ける。
「被害者――日高美奈にこだわるのは、妹さんのことがあったからですか?」
「……違う」
「重ねてるんじゃないですか? あの子と、妹さんを」
「違う!」
「理不尽な暴力によってただただ傷ついたあの子を、救いたいと、解放してやりたいと――」
「だから違うと言っている!」
今にも噛みついてきそうな牧宮へと、紗映子は銃口を向ける。今度は引き金からは指を離している。
牧宮はあごを引いて、紗映子を睨む。
「警官にあるまじきことだ、私怨を持ち込むなど」
「むちゃくちゃ持ち込んでるじゃないですか。捜査方針に反して――いやもう、まとも捜査すら行われていないようですけど――それでも単独で事件を追うなんて」
「…………」
「でも、それが本来の先輩なんですよね?」
紗映子の頬を汗が伝う。
「妹さんの事件のときにも、そうしたかったんじゃないんですか。でも必死で押さえていた。バランスが取れなくなって、家庭にも危機を持ち込むほどに。警官であろうとしていた。けれどそれなのに――」
今は、思うままに事件を追っている。
「そうなったのはいつからですか。自分の願望を抑えきれなくなったのは。このミラーハウスを出てから――いいえ、もしかしたらここに入ってから、じゃないですか」
紗映子は問う。牧宮は答えない。
「ここは、良くない――」
鏡に、自分自身が映る。その時の、その瞬間の自分が、わずかに光の速度だけ遅れて鏡に映し出される。その像は正確なのだろうか。あるいは、その鏡面に対する別の鏡面に写った自分は。
ただでさえ認識を狂わせる仕掛けだ。もし、本当に噂通り良くないものがここにあるのなら。漂っているのなら。充満しているのなら。何かが――棲みついているのなら。
鏡に映った自分の、その思いが、欲望が、願望が――その何者かによって、見抜かれて、写し取られているのであれば。
鏡に囲まれたこの部屋で、それらが際限なく増えているとしたら。
「願望――そうですね、刑事的には動機、と呼ぶべきですかね」
「なにを――くだらん」
「『死にたい』――自殺の動機です」
「…………」
「日高美奈はここで強姦の被害に遭った。彼女はなにを思ったでしょうか。友人に裏切られ、陵辱されて。引き裂かれて。鏡に映った彼女は、どれほど絶望していたでしょうか」
「…………」
めまいでもするかのように、牧宮がふらつく。紗映子は続ける。
「『死にたい』。その願望を、この鏡がいつまでも叶えつづけているとしたら。増やしつづけているとしたら。『増えた日高美奈』は、その願いをかなえつづけていることになる。何度も、何度も――」
紗映子は、頭の奥で冷静さを取りもどしつつある。
「ふん。願いを叶える鏡だとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい」
牧宮は言う。嘲るような言葉だが、どこか力がない。紗映子は言う。
「車内で発見された『肉塊の3人』については分かりません。ですが『出頭してきた1人』は、みずからの罪を告白しているんですよね。何度も。そして、何かを恐れている。過度に」
「それは――」
牧宮は、かろうじて小さくうなずいた。
「ああ、そうだ……」
「先輩も囚われている。この事件に。被害者を救いたい、理不尽な加害者に罰を。事件の真相を。ここで囚われたんじゃないですか。『本当の自分』って相手に。刑事としての体面をかなぐり捨てて、叶えたい望みを剥き出しにして動くようになったのは、ここを出てからのことでは?」
「…………」
「私も今の今まで、知りたくてたまりませんでした」
「――知りたい?」
「はい。先輩の頭の中身を。何を考えているのか、知りたくて知りたくて。撃って、中身を見たら分かるかな、って」
「お前、そんな恐ろしいことを――」
牧宮は顔を引きつらせる。
「……百歩譲って、ここがそういうおかしな空間だとしよう。そうだとして、しかし鏡を壊して解決になるのか」
「分かりません。私、専門家じゃないので。でも――」
「でも?」
紗映子はすうと息を吸って、吐きだした。
「ここは、本当に胸くそ悪いです。あのクズどもがここでやってたことを思うと、むちゃくちゃ気持ち悪いです。だから、ぶっ壊しちゃいましょう、ってことでもあります」
「お前な……」
「そしてさっさと帰って、もっと日高美奈と話しましょう。増えた彼女たちとも。時間をかけてじっくりと――まあ、それこそ刑事の仕事じゃないかもしれませんけれど。それこそ専門家の出番でしょうけど。被害者の心を癒やすしか、もう私たちにできることはありませんよ」
「俺には向かない仕事だな」
「まさか」
紗映子はいたずらっぽく笑ってみせる。
「先輩、日高と話すとき、すごく優しい声でしたよ。私に対するときとは全然違って」
「……ここを壊して、なんになる」
「さあ。ただの憂さ晴らしですよ。事件の犯人のうち、3人は死んでしまった。1人はすでに拘留されて――けれど、『増える』現象を確認するため隔離されてしまった。もう、私たちの手には届かない」
「なら、せめてここを――か。馬鹿げているな」
言って、牧宮は鼻で笑う。
「だが、悪くないかもしれんな」
「虚しいだけかもしれませんけどね。それに――あとで何かに祟られるかもしれませんけど。ああ、先輩はそういうの信じる派でしたっけ」
「ふん」
牧宮はやれやれと首を振る。右手を差し伸べてきて、
「貸せ。俺にも撃たせろ」
紗映子は拳銃を逆さにして手渡す。
「始末書で済みますかね」
「さあな。知らん」
牧宮は受け取った拳銃で鏡を撃った。悲鳴のような破砕音がミラーハウスに響いた。