2・・・増える被害者
「こ、これ」
そう言ったきり、紗映子は言葉を継げずにいた。
画面の中で異変が続いている。
手だ。
日高の黒髪を押し分けて出てきたのは、赤ん坊ほどの大きさの手。その次に顔。胎児の顔。酸素を欲しがるように口をぱくぱくさせて――
赤ん坊が生えてくる。
胸の辺りまで生えたところで、それの髪が伸びた。日高と同じ、黒くて長い髪。その伸びに合わせて赤ん坊が成長する。
「あ、は、は」
喉が渇く。
良くできたCGですね、などと軽口を叩こうとして牧宮の横顔を見るが、彼もまた、重々しい視線を画面に送っている。
冗談ではない――のだろう。
紗映子は視線を戻す。
日高自身には変化はない。
自身の背中で起こる異変にも気づかず、眠りつづけている。まったく動かない。動いているのはただ、『うなじの赤ん坊』だけだ。
でも聞こえる。
紗映子には聞こえる。
この動画に音声はないが、それでも聞こえた。
みしみし、と、
音がしている。
日高の頸を、その骨と肉を掻き分けて、赤ん坊が生まれている。
その誕生する赤ん坊は、次第に髪の毛が生えそろい、四肢が伸び、乳房が膨らむ。
――同じだ。
日高と同じ背格好。
やつれ具合まで同じ。
皮膚が波打ち、日高の服まで再現する。白い病衣。これで同じだ。日高と同じになった。
被害者が――増えた。
「は、あ――」
新しく生まれた日高は、もとの日高と背中合わせで眠る。まるで――本当に何事もなかったかのように、新しい日高は眼を閉じ、左の方向に体を向けて眠りだした。
そこで、
ぷつりと再生が終わる。
と同時、牧宮の腕が伸び、ノートパソコンの画面を乱暴に閉じた。もうたくさんだ、とでも言わんばかりの動作だった。そして彼の顔も。紗映子をじろりと見上げて、牧宮は言う。
「どう思う?」
「ど、どうって」
「これは現実だと思うか、という意味だ」
「い、いやぁ、さすがに何か、その、トリックというか何というか」
こんな映像なんて、作ろうと思えばアマチュアでも作れるだろう。それなりの技術や機材が必要だろうから、誰でもとはいかないが、高度な専門知識までは必要とされないはずだ。画像も粗かった。映像トリックのお粗末さを隠すために、あえて暗い画面にしているのかもしれない。
でも――。
これは違う。
刑事の勘などという大層なものではない。
この、肌の裏側を虫が這うような感覚は。
これは――
「これで十五人目だ」
と、牧宮が言った。
「は?」
「忌々しいことにな」
「は、え……?」
牧宮の言うことが理解できなかった。
十五人。
どういう意味だろう。
いや、本当は考えるまでもない。
答えは分かっている。
紗映子は分かっている。
ただ――考えたくないだけだ。
思考を放棄したその先を、仏頂面の先輩刑事が冷淡に告げた。
「被害者の日高美奈は、増えつづけている」
■ ■ ■
牧宮は、紗映子を連れて――紗映子にしてみれば連行された格好だ――被害者の日高が収容されている県立病院を訪れた。
紗映子は病院が苦手である。
まず、においが良くない。無論、病院施設は清潔そのものであり、この比較的新しい県立病院もクリーンであるのだが、この白い匂いが紗映子は苦手だ。そして、病棟に迷い込むと、方向感覚が狂わされるようにも感じる。
そのうえ今日は、苦手な先輩刑事のお伴だ。
さらに加えて、これから例の被害者に面会せねばならないのだから、本当に滅入ってしまいそうな気分だった。
牧宮に従って病棟内を進む。
エレベーターが止まったのは八階。このフロアは、『日高のために貸し切られている』のだそうだ。
エレベーターホールでは、病院のスタッフのような白い着衣の男が四人、長テーブルに座って紗映子たちを出迎えた。なんだか健康診断の受付のような格好だ。
だが、相手はおそらく同業者だ。
紗映子たちを睨めつけるその視線は、警官のものだ。
牧宮はずかずかと男たちの前に歩み寄る。警察手帳を開示して、
「M県警捜査一課の牧宮。捜査班のメンバーだ。うしろも同じく、北原だ」
言われて紗映子も慌てて手帳を見せる。
受付の男は疑うような視線で手帳を見、それから顔を上げて、
「……県警が今更、なにか?」
「なにかもどうもないだろう。俺たちはこの事件の担当だ。捜査のために被害者に会いに来た」
相手の眉がぴくりと吊り上がる。不穏な空気が流れたが、二人は廊下の先へ進むことを許された。
おそらく、無関係の者は彼らによって追い返されるのだろう。この奥には『秘密』があるから――。
「あの人たちは?」
「警察庁特殊事件捜査室――か、それに類する部署の連中だ」
「はい?」
「俺もよく知らん。愛想の悪い連中だからな」
「…………」
「なんだ?」
「いえ、何も」
廊下を進むと、フロアは厳戒態勢そのものだった。制服の警官もいる。どうやら、県警の範疇を超えた事件になっているらしい。ナースステーションや病室内は、会議スペースや、さながら研究室のように様変わりしている。
警察のほかにも、スーツ姿の集団や、白衣を着た集団がそれぞれの部屋を占拠している。
物々しい雰囲気。
重苦しい空気。
やはり、あの映像は事実ということなのだろうか。
一晩寝て、あれは作り物だったのではないかという気持ちもしていたのだが、どうやらその儚い希望は打ち砕かれる運命にありそうだ。
「はあ、胃が痛いです」
「あとで内科にでも行ってこい」
「……優しいですね」
「褒めても何も出らんぞ」
「別に褒めてませんよ」
先ほどの、牧宮の紹介には欺瞞がある。
紗映子は『ドリームランド強姦失踪事件捜査班』の正式なメンバーではない。牧宮が勝手に巻き込んだだけだ。たしかに、『牧宮と同じ捜査一課』の課員ではあるが。
そもそも、県警はすでに手を引いているようにも感じる。先ほどの『受付』の態度もそうだし、署内での雰囲気もそうだ。あの映像が事実を映し出しているのなら、これはもう警察の所掌の範疇を大きく外れている。
牧宮は学者や研究所がどうとか言っていた。それがどんな分野なのかは皆目見当がつかないが、警察官が知恵を絞るよりは解決に向かいそうなメンバーだ。
では、やはりこれは牧宮の独断捜査なのだろうか。女性としての意見を聞きたいとか、そういうことなのかもしれない。
「ああ、私、減俸くらいで済みますかね」
「俺はいつでも辞めていい覚悟で仕事に臨んでいる」
「それは大層ご立派なことで」
「警官なら当たり前だ」
「…………」
この人とは噛み合わないなぁ、と改めて思う。
しかし、雑談が成り立つだけいつもよりマシのような気もする。もしかしたら、緊張している紗映子を気遣ってのことかもしれない。あるいは、牧宮自身の畏れを紛らわせるためか――。
◇
紗映子は昨日のことを思い返していた。
あの薄暗い会議室で、牧宮はさらにこう続けた。
「こいつらはな、次々と死んじまうんだ」
「死ぬ?」
こいつら――
増えた日高たちのことだろう。
しかし、死ぬ、とはいったい。
「もしかして未熟児みたいな感じですか」
成人女性の姿にまで成長したとはいえ、映像の中の『赤ん坊』は、なにせ生まれたばかりだったのだ。
では、身体に何らかの欠陥があって、すぐに衰弱して死んでしまうのだろうか――と紗映子は考えたのだが、
「日高本人は随分と弱っている。あの事件があって、ロクに食事もとれていない。証言も途切れ途切れで、必要な情報を聞き出すのに苦労した」
「…………」
「だが、それとは別に、こいつらは――」
言い淀んで、牧宮はさらに渋面を濃くする。
「命を絶つんだ」
「…………。それって」
紗映子は眉をひそめた。
「自殺するってことですか?」
「死因はまちまちだ」
牧宮は言った。
「一番目の日高は、窓から飛び降りた。他にも、近くにあったボールペンで自分の首を貫いた奴、夜中に着衣のヒモで首を吊った奴、中には、古風なことに舌を噛み切った奴までいる」
「…………」
「ちなみに、今おまえに見せた十番目がそうだ。舌は噛み切ったが、発見が早く、処置を経てまだ生きている。幸いなことに――と、この場合そう言っていいのかは分からんがな」
「は――」
声にならなかった。
病院で次々と自殺を図る被害者。
そのどれもが、同じ姿の同じ人物なのだ。精神に異常を来しているとしか思えないが、それ以前に、この状況自体が異常だ。あってはならない。あり得ない。
「あの、さっき『一番目』って言いましたよね? 」
わずかな引っかかりを感じて、紗映子は問うた。
「窓から飛び降りたって。その人は――」
「死んだよ。まだ今のように警備も付いていなかったからな。始めに入っていた病院でな、六階の高さで頭から落下した。即死だ」
「でも、そんなこと、一課には全然」
「ああ。秘匿されていたからな」
「そんな――」
釈然としない気分でいると、牧宮が続けた。
「その時点で『異常』だったんだ。一人は飛び降りたんだが――もう一人が生きていたからな」
「え?」
「だから。飛び降りる直前、あるいは少し前、か。日高は『分裂』していたんだよ、さっきみたいにな」
「あ」
飛び降り自殺するまで追い込まれてしまった、強姦事件の被害者。それはそれで十分な悲劇ではあるのだが、しかし、この事件の場合、彼女はもう一人いたのだ。
「下手な探偵小説じゃないが、双子説まで飛び出してな、一応はきちんと鑑定もやったんだ。だがDNAも一致。歯形も、歯の治療痕も――あとは、ご丁寧なことに強姦被害の際につけられたであろう傷跡までもが、完全に一致した」
「…………」
「本人に聞いても、まったくの上の空だ。他のことに関してはまだまともに会話もできるんだが、自分がもう一人、ないしそれ以上いることについて、うまく認識できないらしい」
「認識できない?」
「そうだ。互いに顔を合わせても、『だからどうした』という表情を浮かべるだけだ。そこにいるのが当然だろう、何がおかしいのか、といった態度だった。まるで――」
――鏡を見ているように。
と、牧宮は言った。
「そんな……。じゃあ家族は? ご家族はなんて?」
「ああ」
牧宮は、左手の指でこめかみを揉むようにして目をしかめた。
イラついているときの彼の癖だ。
その薬指には指輪がある。
四年前に離婚してそれきりのはずだが、牧宮はその指輪を外していない。周りには指が太って取れなくなったと言っているらしい。
「被害者の家族は、まあ、至って普通だ。体も、それから精神もまったくの正常。家庭環境もだ。もちろん事件のことを知って取り乱してはいたがな。そして、『一番目』の自殺を知って――さらに混乱していた」
牧宮は重いため息をついた。
「はじめは、飛び降りたほうも『日高美奈』だと言っても信じなかった――これはまあ、言っちゃあ何だが、正常な反応だな。娘が死んだ。だが、病室ではもう一人の娘が生きている。元気にとはいかないが、それでも前日までと同じ様子でそこにいる。死んだ方も同一人物だなんて――信じられるわけがない」
「……ですよね」
「俺たちだって信じられなかった。だが――」
「……同じようなことが、続いた?」
牧宮はうなずいた。
「彼女の分裂は――いや、増殖か――どっちでもいいな。その分裂だか増殖は、夜のあいだに起こる。だから交代で番を張って、自殺を食い止めた。……人道的ではないが、死にたがる彼女をベッドに拘束するようなこともした」
「…………」
「だから、被害者はどんどん増えた。そのうち、家族のほうが先に参っちまった」
それはそうだろう。娘が、家族が日を追うごとに増えて、そして自殺を企図する――常人に耐えられる環境ではない。だから家族とは、しばらく接触させないことにしたという。このままでは、別の意味で被害者が増えてしまう。
紗映子はもう胸焼けがするくらいの気分だったが、それでもなお、まだ引っかかりが残っているのを感じていた。
『一番目』――
そう、一番目だ。
「その、一番目の被害者って、えっと、飛び降りた子は」
「…………」
瓜二つの、いや、完全に同一の人物。
外見では見分けがつかず、科学的な手法によっても区別できない二人。
では――
「始めに死んだのは、どっちだったんですか?」
「…………」
「先輩。牧宮先輩」
牧宮は沈黙を貫いた。
――ああ、そうか。
分からないのだ。
一番始めに死んだのは、本物の日高美奈だったのか、それとも増えた日高のほうなのか。
もう誰にも、分からないのだ。