夏色の浜辺
なんてことのない、全く以って常事の極みといった所だ。僕は死んで幽霊になった。
おかしな事ではないし、人は死んだらあの世に行くなんてのは幼いころから言われてきたことだ。例えば、亡くなったらお星さまになるんだよ、なんていった風に……。
子供の頃はそれを鵜呑みにして、夜空に瞬く銀塊は元は人間だったんだ、などと一丁前にロマンティックに浸ったものだ。
でも、僕はお星様にはならなかった。
不時着した飛行士に羊の絵を所望す事も無ければ、火山の掃除やバオバブの芽の駆除もしない。北極星のように、まばゆく輝いて闇夜の道しるべになる事もなかった。
なぜあんな嘘を代々大人は子供に聞かすのだろう。ちょっと素敵に、「また生まれ変わって君に会いに来るんだよ」とか、「その時は君が沢山の事教えてあげてね」とか言ってくれればいいのに……。またそれも嘘なのだから、人は悉く嘘をつく生き物なのだ。
でもそれは決して悪いわけではない、良く言うじゃないか、嘘も方便って。
つまりは、その嘘は優しいってことだ。
まあ兎にも角にも、僕は何者にもなれずにただ幽霊になった。
死んだところで行くのはあの世、僕はさっきから辺りを見回してみているんだけど、ここは本当にあの世だと思わないとやってられない程、なんだか気分が良い場所だった。
手を潜らせれば染まりそうな程に青い広大な海、突き抜けるブルーの空、切るように伸びる真っ白な飛行機雲。耳には潮騒の音がソーダのように弾けて回り、白い泡が砂浜をなぞって貝殻を運んでいた。僕はそんな中、学校の制服を身に纏って立っている。
服装から、ひょっとするとどこか自分の知らない土地に来ていて、自分はまだ生きているのではないかと期待はしたものの、空に浮かんでいる白くて丸い大福のような物体を見て、流石に現実では無いことを悟った。
僕は後ろを向いた。柔らかい砂浜をむにむにと踏みながら身体を百八十度反転させてみると、ブルーの色彩がグリーンに変わる。今度は見渡す限りの大草原が広がっていた。蒼々としたグリーンのキャンパスには建物どころか、山陵や木の枝一本見えない。シンプルなグリーンの油絵具を筆で塗ったような、衒いの無い、純真な景色だった。
実を言うと、目の前に門が立っている。
赤い鉄骨を三本使った簡素な造りのその門は、潮風に曝され錆がかなり浸食していた。さらにその錆びた門の傍らには車掌の格好をした大きな風船の様な男が立っていて、帽子を深々と被りまるで寝ているかのように微動だにしなかった。
青と白と緑の色彩に、無骨な門とまあるい車掌。そして僕。
「すみません、あれは何ですか?」
不思議が煮詰まった空間で、僕は海側に浮かぶ白い大福を指さしてその風船男に尋ねた。
「なんでもないですよ」
えらく気だるい声で風船男は応えてくれた。しかも良く見てみたら人ではなくカバだった。カバ男だ。頭に何か生えているとは思っていたが、そうかあれは耳か。
しかし、なんでもないとは随分妙な回答をする。
「なんでもない? 月でも太陽でもないんですか?」
「人はああいうものが必要なんだと、ずっとあそこにあるんです」
ああいうもの……。道しるべと言うことだろうか。太陽が右から出て左へ消えると同時に、今度は月が右から出てくる。空には丸い天体が代わる代わる入れ替わり、人はそのサイクルの中で生活をしている。だからああいうものを置く事で現状を理解しろというのだろうか。
いくらなんでも、強引な無理な話だ。太陽でも月でもない丸いものが浮いているからといって、ここがあの世と理解できるとは限らない。
「君は、死んだのかい」
僕が大福を見上げて思考をしていると、気さくな態度でカバ男は尋ねた。
「ええ、僕は死にました」
僕は振り返って応えた。
そう、僕は死んだ。カバ男が死んだ事を問うた時、僕もまた死んだことを再び理解した。
「パスポートは?」
カバ男はまた尋ねた。
「パスポート? 何のパスポートですか?」
「“ここ”を通るために決まっているじゃないか」
“ここ”というのはその錆びた門のことだろうか。門に切り取られた風景には草穂が風を追っている。でも風の足跡は門の口からはみ出て僕の視界の先に消えた。どうして通る必要があるのかわからない。
もっと言えば、パスポートがいる必要がわからない。
「ここを通らなければいけないんですか? どうして?」
「理由がいるのかい」
「そりゃあ、いりますよ」
「では、君はここで何をする。釣りでもするのかい。悪いが、ここは見ての通り木の枝一本生えてない。糸になりそうな蔓もない。針もないし餌もない。ついでに言うと、魚もいないよ。ここは君が見ている景色があるだけさ」
「……何も、ないんですね」
「何かなきゃいけないかい」
「いや、いけないというか……」
「君は何を望んでいるんだ。ここに居てどうする」
確かにここに居てもどうしようもない。腕を組んで僕は考えた。
ここは景色は素晴らしいことこの上ないが、自分が風景に混じって消えてしまいそうでならない。色に僕の存在を消されてしまいそうでならない。僕はいつだって消えそうな存在だったんだ。同じ制服を着た生徒達に入り混じって人間をやっていた。それを思い返してみると、今の状況はそんなに差異があるとは思えない。
輝かしいものの傍というのは常に恐怖を感じるものだ。
これ以上口ごたえをすると、カバ男がその大きな口を開けて噛みついて来るかもしれないので、僕は大人しくルールに従った。
「パスポートがどこで発行できるのか、教えてもらえますか?」
「券自体は俺がくれてやる。しかし、ここを通るには認証がいる」
「誰に認めてもらう必要があるんです?」
カバ男は一度煙草の煙を吹かすような深い息を鼻から吹かすと、これから長い話でもするかのようにだるそうに呟いた。
「自分だよ」
「僕が自分自身に死んだことを認めれば入れるってことですか?」僕は意気揚々と言って見せた。「それなら大丈夫です。僕は間違いなく死んでいる」
だが、カバ男は肩を落として首を振った。ダルさには一層の重みが含んでおり、鬱屈とした息をカバ男は吐いた。
「そうじゃない、君は死んだ事実を受け入れなきゃいけないんだ」
はて、僕は思案した。先程言った通りではいけないのだろうか。
僕はここに来て何度目かの『死んだ』を実感した。そして、やっぱり自分は死んだんだと事実に事実を塗り重ねることしかできなかった。真実は油絵の凹凸のように厚みを増して、独特の艶を見せた。これ以上なにを理解する必要があるのだろうか。
「僕は気付いたらここに居ました。死んだという実感を漠然と、しかしはっきりとした印象として認識しました」
「そうかい」
カバ男は突っ張った車掌服の胸ポケットから一枚のカードを取りだし、僕の足元に放った。
「すまねぇな、俺はここを動いちゃいけないんだ」
「誰かに命令されているんですね」
カバ男は何も答えなかった。
「これが、パスポートですか?」
カードを拾い上げ、少し砂を被っていたので適当に叩いて眺めてみる。
真珠層のような光沢をみせるカードには既に僕の顔写真が付いており、下には長い番号と、写真の左側にはやや大きめな四角い枠があった。
「ここに、認証印が?」
「そうだ。君はこれから現世、つまりは自分が生きていた世界に戻る。そこで自分が死んだことを確認してくるんだ」カバ男は特に言い聞かせるように続けて言った。「いいか、死んでいる事実ではなく、死んだ事実を探して来い」
カバ男はよく分からないことを言う。
「えーっと、どういうことでしょう? 何か違いが?」
僕がそう言うとカバ男は肩を揺らして首を振った。
「大いに違う。お前は死んだ。確かにそれに違いは無い。だが、お前は自分が何故死んだか、どうやって死んだかを理解しているか?」
僕は「いいえ」と首を振った。
「『死』そのものを受け止めるのは、死んだ人間にとっては容易い。認めざるを得ないからな。しかし、自分がどう死んだのかを理解していない者が、これが意外にも多いんだ。自分の死を正しく認識していない人間は輪廻に帰ることが許されない」
「誰から許しを得るというんです?」
僕は既に答えのある問いをカバ男に訊いた。
「もうわかっているだろう」
カバ男も、呆れたため息を吐いて答えを濁した。
「自分、ですか……。そういう風にできている。それがルール」僕はこれ以上、この問題に質問を重ねるのを止めた。「それはもう、従うしかないんでしょうね」
「ああ、従うほかに、無いな」
すべきことが解った所で、僕は景色の世界を一通り見渡して言った。
「ところで、僕はどうやって現世に行けば良いのでしょう」
ここは景色しかない。下に降りる穴も無ければ、上に登るためのクモの糸も無い。海を泳いで行けと言われたらどうしようか。僕は泳ぎはそんなに得意ではない。その時は何もかも諦めて歌でも歌おうか。
「君、名前は?」
「僕は船木勇介といいます」
「では、船木勇介。今から現世に行き、自分の死を見つめてきなさい」
カバ男が最初の時同様、事務的にそう言うと、天に波紋が広がり、現世の景色が映し出された。鳥瞰の映像だったので妙な浮遊感を覚えた。
僕がいつまでも上を見上げていると、カバ男は手を敬礼の形にして礼儀正しく僕を見送った。
「では、貴方の未来が報われますよう」
はて、僕はどんな未来なれば報われるのか、色々考えてみたが答えは出なかった。どうやら僕は現世に行くらしい。一応何が起こってもいいように身構えたが、なんのことは無い、トランポリンのように僕は跳ねあがり天の境界線へと突っ込んでいった。そして水面を叩くの如し、僕は天を弾かせて現世の空に飛んでいった。