僕らの恋
下部温泉にチェックインした僕は、温泉で疲れを癒し、夕飯を頂き部屋に戻ってきた。
窓を開けると旅館の前を流れる下部川のせせらぎが聞こえる。
僕は窓際に座ると、夜空を眺めていた。
ネオンライトに邪魔される事のない澄んだ夜空。星がとても綺麗に見える。
標高が高いせいか、気持ち星が近くに見えるのは気のせいだろうか?
そんな事を思いながらも、心の片隅ではいまだに思い出せずにいる約束の事を考えていた。
僕は写真を取り出し、彼女に問いかける?
「あの頃僕らが約束した事は何だったんだろうか?」
答える筈のない写真の中の彼女は、優しく微笑むだけだった。
時計を見ると23時5分を針は指していた。
約束の時はもう目の前だ。
僕は部屋の明かりを消すと、布団に潜り込んだ。
明日は早めに約束の場所に行こうと思っている。
彼女が何時に来るかわからないし、最近まで約束を忘れていた僕の、せめてもの罪滅ぼし。
10年ぶりに会う彼女はどんな女性になっているだろうか?
そんな事を考えながら僕は眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ましたのは7時を少し過ぎた頃だった。
僕は少し寝汗をかいていたので、朝食の前に軽く汗を流す為お風呂に向かう。
ここ下部温泉は武田信玄の隠し湯とも呼ばれている。
ぬるめのお湯は長く浸かっている事も出来る程で、湯上りにまた汗をかくという事もない位のちょうどいい温度だ。
30分程お風呂に浸かった後、広間で朝食を取り、8時半にチェックアウトした。
温泉を出ると僕は52号線に戻り、30分ほどかけて昨日訪れた道の駅に向かう。
更にそこから少し南下し、喫茶店を右に右折すると道なり真っすぐ801号線を車で走る。
途中802号線に合流するので、そこから昔利用していたバス停、徳間を目指す。
徳間バス停からは一本道の為迷う事はないが、昔の記憶の為、僕は地図で確認しながら、月夜の段を目指す。
昔の記憶とは違い、道もそれなりに綺麗に舗装されている。
調べておいた情報だと、徳間から月夜の段までは約8キロ。
車ならさほど遠くない距離だが、徒歩だと大分ある。
よくこんな道を当時の僕らは歩いてきたものだ。
少し驚きつつ道を進むと目的地が見えた。
”月夜の段”
間違いないここだ。
二人で非難した東屋はかなり朽ち果てていたが、景色には見覚えがある。
僕は脇に車を止めると東屋の中を確認した。
彼女の姿はまだなかった。
時計は9時35分を指している。
僕は東屋横に掛かった橋の袂に腰を下ろすと、ガードレールに背を持たれ瞳を閉じた。
とても静かな時間が流れる。
静かに流れる風の音の心地よさに、僕は少し眠ってしまっていたらしい。
目を覚ますと、僕の隣に彼女が佇んでいた。
僕は写真を取り出し、目の前の彼女と照らし合わせる。
10年ぶりに会う彼女は、どこか昔の面影を残しつつも、とても綺麗な女性になっていた。
「久し振りです。約束、守ってくれたんだね。」
彼女が嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔には見覚えがあった。
間違いなく僕の知っている鳴沢 舞だ。
僕は内心その笑顔に胸がドキドキしたが、悟られぬようあの頃と変わらない挨拶を交わす。
「久し振りだな。びっくりしたよ、大人になったな!」
そう話す僕にクスクスと笑いながら舞は答える。
「10年ぶりですもん、お互いにあの頃のままじゃいられないわ。あなたもとても素敵になったね。」
照れくさいセリフをサラッと述べる辺りは相変わらずだ。
彼女と再会し、まだ殆ど会話していないが、色々な事が蘇ってくる。
あの頃の思い出とともに、忘れていた気持ちも連れて色々な事を思い出す。
僕らはそれから色々な話をした。
引っ越してからのお互いの生活や、今現在の事。
彼女はまだあの家にいて、実家の農家を手伝っているらしい。
僕は地元での学生生活なんかを話した。
話は尽きる事がない。
こんなにも話をしたのはいつ振りだろうか?
とても楽しい時間の中に、少し心苦し部分もあった。
そう、約束の事だ。
いつまでもそれを隠しておく事は出来ない。
僕は彼女に約束の話を切り出した。
「ゴメン舞。僕は正直な話、あの日約束した事を忘れてしまっているんだ。この場所で、二人にとって大切な約束を交わしたことを覚えてはいるんだけど、そこから先が思い出せない。ここ数日ずっと考えていた事なんだけど・・・。」
正直に打ち明けると、僕は彼女に頭を下げた。
「仕方ないわ。もう10年も前の小さかった頃の話だし、あなたは泣きじゃくる私を必死に勇気づけてくれていたから・・・。
舞は少し寂しそうに笑った。
「でも私はあの時の約束がとても嬉しくて、忘れた事なんてなかったわ。」
そう言うと、舞は白い封筒を僕に手渡した。
「覚えてる?あなたが私にくれたものよ。私の大切な宝物。」
僕は白い封筒を舞から受け取ると、その中にあったものをそっと掌に取り出した。
「あっ」
僕はすべてを思い出した。
それは10年前のあの日、泣きじゃくる彼女を何とかしたい一心で、僕は彼女に言ったんだ。
「大丈夫だよ、僕が付いているから!これからもずっと舞の事は僕が守る。」
そう言うと舞は泣きながら僕に尋ねたんだ。
「ずっとっていつまでなの?」
僕は答える。
「ずっとはずっとだよ!僕がおじいさんになって、舞がおばあさんになってもさ。でもそうする為には僕らは結婚しなくちゃならないんだ。大人になったら僕が舞をお嫁さんにしてあげるよ!」
そう言うと舞は泣き止んだ。
「大人っていつ?」
僕は少し悩んで舞に答える。
「20歳になったらだよ!」
そう言うと僕はズボンのポケットから缶ジュースのプルタブを取り出し、舞の手を取り彼女の細い指にそれを通したんだ。
全てを思い出した。
彼女はこんな空き缶のプルタブをまだ大切にとってくれてあった。
「思い出したよ。こんなに大切な事を今まで忘れていたなんて・・・僕は馬鹿だ。舞、君はずっと覚えていてくれたんだね。」
そう言うと舞はさっきとは違い嬉しそうに言う。
「私の初恋はまだ続いているから。」
僕はそう答えた舞の手を取った。
「舞、もう一度約束しないか?今はまだ学生の身分だからすぐには難しい。でも僕が大学を卒業したら、今度こそ二度と離れる事がない様に、ずっと一緒にいてくれないか?」
彼女は瞳一杯に涙を溜めると、小さく頷いてくれた。
僕は彼女を抱き寄せると、そこで初めて誓いのキスを交わした。
止まったままの僕らの恋は、約束の場所、”月夜の段”から、10年の時を経てまた動き出したんだ。