99.草食動物の反撃 1
緊張状態から酸欠気味になっているのか、頭の中はのぼせ上がったように、ふわっとしていた。視野の端から闇が滲み出て、中央に映る被写体を残して黒で塗り潰していく。
学人は全ての意識を目の前の男に集中させていた。
ほんの僅かな動きでも見落とせない。上半身がブレて視界が揺れてしまわないよう、すり足でゆっくりと後退する。
少し息苦しさを感じて鼻息が荒くなる。凍った毛が中で擦れて痛い。
口で思いっきり呼吸をしたいところだが、吐き出した白息で視界を遮りたくはない。
『震えてるけど?』
ノットが鼻で笑う。
指摘されるまで気が付かなかった。
寒さもあるが、それ以上に恐怖心からくる震えだった。いくら抑え付けたつもりでも、本能からくる部分まではどうにもならない。
どうするか。これからの“予定”を頭の中に思い浮かべる。
勢いだけで突っ切るか? きっと学人の剣は届かない。日本でなら、振り回すだけでも十分な威嚇になるだろう。
眉ひとつ動かさないノットと、そしてあっさりと死に見舞われる自分の姿が見えた。これは自殺行為に等しい。
ここは物置だ。とりあえず、手当たり次第に物を投げてみるのはどうだろう?
さらに酷い、馬鹿馬鹿しい。醜態を晒すだけで、隙のひとつも作れやしない。コメディ映画のように、投げたレコードが頭に突き刺さる、なんて展開はあり得ない。
学人に今できるのは、可能な限り距離を取る事だけだった。
ノットの足が階段を一段降りると、それに反応してビクリと体が跳ね上がる。意思とは裏腹に、体は実に正直である。
その様子を見たノットから失笑が漏れた。
ふと、その手に何かが握られているのに気が付いた。拳大の物だが、暗がりでそれが何であるのかはわからない。
学人の視線を辿ったのか、ノットがそれを持ち上げてみせる。
『これ、見覚えがあるだろう?』
見せ付けられたのは魔法結晶だった。
見覚えがあると言われても、結晶など色と大きさを除けばどれも同じにしか見えない。一見真っ黒のようだが、かすかに赤みを帯びているようだ。結晶という大きな意味でなら見覚えがある、しかし特定の物として指しているのなら「わからない」と答える他なかった。
『君から採取した魔力だよ』
見覚えがあるはずがない。あの時は白くぼんやりと光を帯びる、美しい結晶だった。それがどうだ、今は酷く禍々しい色をしている。
『変異前のものだったんだけどね、採取したあとも変異は収まらなかった。もはや私ですら操作できない』
学人は静かに耳を傾ける。
今それを見せたという事は……。
『魔力の強制操作ってどうやるか知ってるかい? 自分の魔力を浸食させるんだ。大地に根を張る植物のようにね』
言われてもあまりピンとこない。
以前にヒイロナがそれらしい事をしていた気もするが、学人にとって魔力という概念はふわふわとしたものでしかない。
『拒絶されてしまうんだよ。なんて言えばいいのかな……一寸の隙間も無い、金属を触っているかのようでもあるし、水の塊に触れているようでもある。何者も干渉する事ができないんだ』
つまり、何の役にも立たない産業廃棄物と言ってもいいだろう。
『でもね、調べていくうちに面白い事がわかった。これはこうやって使うんだよ』
結晶に光が混ざる。
何かをする気だ。そう身構えた直後、頭上からジャラジャラとした金属音が降り注いだ。
『な……これはッ!』
何もなかった天井から、学人に向かって鎖が襲いかかる。先端が丸い枷になっていて、それは中世映画などの牢獄で見る、囚人の拘束具だった。
踵で咄嗟に床を蹴りながら、迫りくる鎖を剣で辛うじて弾く。
どうやら射程圏外に出たようで、鎖はピンと張り詰めたかと思うと、力無く頭を振り始めた。
押し殺した笑い声が物置に響く。
『これは拒絶の魔力とでも名付けようかな。干渉はできない。でも、通す事はできる』
ノットが何を言わんとしているのか、学人には理解が追い付かない。振り子になっていた鎖は急激に透けて消えていった。
また新しく飛び出してくるかもしれない。一本だけでなく一度に複数でかかられると、とても避けきれるものではない。
『この魔力を通して生成された魔法は、干渉されないという特性を持ってね。こうして嵐の中でも問題なく使えるってわけさ』
元々魔法で拘束するつもりはなかったのか、ノットは魔法を生成する素振りも見せずに、一歩、また一歩とこちらへ歩み寄って来る。
まさか新しい発見を自慢するために、わざわざここに足を運んだわけではないだろう。ようやくノットの目的に思い当たった。
魔力の補充に来たのだ。
『それ以上近付くんじゃあないッ!』
『大丈夫、痛くはないよ。何も命まで取りはしない』
信じるな。
その言葉を聞いて、一瞬だけ安堵の感情が浮かび上がる。しかし、それはすぐに掻き消される。
ほんの少しだったとはいえ、相手に殺意が無いと知ると、安心を覚えてしまった。恥ずべき事だった。
この期に及んで、無意識に鵜呑みにしてしまったのだから。
『良い事を教えてあげよう。私は今、あまり魔法を使えない。さっきのような鎖を出すのが精々さ』
聞くな。相手にするな。これ以上近寄らせるな!
学人の思考が警鐘で埋め尽くされる。
『私は運動が苦手でね。筋力だけだったら、もしかしたら君の方があるのかもしれない。つまり君は今、ただの男と対峙していて、その気になれば簡単に出口を抜けて逃げられるわけだ。なんだったら殺す事もできるよ』
それは小さな昆虫を甚振って遊ぶ、子供の気まぐれと同じなのかもしれない。
丸い線で囲い、見事越える事ができれば見逃してあげる。暗にそう言われている気がした。
(ふざけるなッ……!)
自信や自惚れではない。それは絶対的な確信。
学人は階段まで辿り着けない。ノットにはその確信があった。
『ほら、どうしたの? それをちょっと突き出すだけで、私を殺す事ができるんだよ? そうすれば万事解決さ』
剣の切っ先にノットの胸が当たる。
本当に少しだ。少し力を込めるだけで、肉を裂いて肋骨を砕き、心臓を貫く事ができる。
ジェイクなら、この世界の人間なら、既にそうしているだろう。
『――けるな』
『ん、何かな?』
『ふざけるなッ! 必ずお前に裁きを受けさせてみせる!』
『どうやって? 私はまだ何も成していない。それに、君に証明できるのかな?』
剣が払い除けられ、細い右手が学人の首を掴んだ。
指が喉に食い込み、強烈な圧迫感に咳がこぼれ出る。剣を落とし、学人はその腕を掴むも、思うように力が入らない。
『ああ、ごめん。痛くないけど苦しいかも』
全く悪びれる様子のない謝罪を口にしたあと、血が逆流しているような、体温が移動するかのような感覚に襲われる。
手から逃げるように、ふらふらと後ろへ下がる。それに合わせてノットも前進する。とうとう壁際に追いつめられて、木箱に手を打ち付けてしまった。
やがて何も考えられなくなり、手足の感覚も無くなる。首を圧迫された苦しささえも感じなくなり、視界が真っ暗になった。
『君はまだ使えそうだ。だから生かしておいてあげる』
ノットが何かを喋っているらしいが、もう頭の中までは届かない。
『――ト、ガクト!』
次に気が付いた時には、ペルーシャの顔が大映しになっていた。
そういえばペルーシャとの最初の出会いも、こんな感じだった。そんな事を考えながら、朦朧とする意識でさっきまでの記憶を手繰り寄せる。
今のは夢だったのか、幻だったのか――。
『ニャにがあった!』
頬を叩かれ、ようやく思考が正常なものになる。
手の甲を見れば、怪我をして血が流れている。あれは現実で、血が凍ったり固まったりしていないことから、意識を失ってから全く時間は経っていないらしい。
手を借りて立ち上がろうとするも、脚に力が入らずに崩れる。魔力を使い切ったヒイロナも、これと同じ状態だったのだろうか。二日酔いになった時のように、頭に響く鈍痛と嘔吐感。
魔力を奪われてしまったが、それ以上に大きな収穫があった。命があっただけでも幸運と捉えるべきだろう。
『まだ……これからだ』
『ガクト?』
『行こう。ノットにもう用はない。領主と話がしたい!』
力強くそう言うと、学人はとりあえず嘔吐した。




