93.狂犬
番犬ザット。かつては狂犬と呼ばれていた。
何の捻りもない二つ名だが、非常にわかりやすく、本人はとても気に入っていた。
女神大戦前は剣闘士として、ファラン領で活躍していた。職業柄、わかりやすい二つ名とは都合の良いものである。変に凝った、どんな勇ましいものよりも自分の強さをストレートに誇示できるし、何より印象にも残りやすい。
あれこれと考えるのを嫌うザットにとって、目の前の相手を殺す事だけを考えていればいい剣闘士は正に天職だった。
ある時、アイゼルハイム領との対抗死合で戦鬼族と闘った。
希少な戦鬼族は身体能力だけを見れば、どの種族よりも優れている。人気も他を寄せ付けない不動のもので、ザットが遅れを取っていないのは闘争心と俊敏性だけだった。
持ち前の素早さを活かして健闘するも、ザットは両腕を折られて地に這いつくばった。
観衆の期待通りの結果だった。
純粋な肉体のぶつかり合いで戦鬼族に勝てる者などいないのだ。
死ぬか白旗を挙げるまでが死合だ。ザットはまだ生きていたし、降参をした覚えもなかった。
だのに、誰もが戦鬼族の勝利を讃えて沸き上がっていた。
だから喰らい付いてやった。
拳を掲げて、歓声に応える戦鬼族の喉笛に。
血の泡を吹いて崩れる戦鬼族を目に、観衆は言葉を失っていた。誰もが戦鬼族の勝利で幕引きだと信じて疑っていなかったのだから当然だ。
ザットはその日を境に狂犬と呼ばれるようになった。
女神大戦が勃発。
ザットは喜び勇んで戦場に立った。
自分が王国を勝利へと導く。その自信があったし、実力もあった。
しかし、戦場に出るとすぐにそれが思い上がりである事に気付かされた。
闘技場とは違い敵は無数にいる。前線に出ると四方八方から刃が飛んでくる。矢と魔法が雨のように降りかかる。運が悪ければ味方の放ったものに当たって、最悪死ぬ。
闘技場でもバトルロイヤルはあったものの、戦場のそれは比ではない。
事もあろうか味方を振り切って一騎駆けをしたザットは格好の餌食だった。
出撃後間もなく、ザットは深手を負い孤立した。なんとか命はあったものの、戦場のど真ん中では意味がない。止めを刺されるのは時間の問題だった。
天使族の振るう戦斧が眼前に迫った時、自らの愚かさを呪いつつも潔く死を受け入れ、静かに目を閉じた。
己以外は全てが敵……剣闘士とはそういうものだ。人生において味方などいなかったザットには、独りで戦う以外の方法を知らなかった。
死ぬ事は怖くない。常に死と起居を共にして生きてきたのだ。
恐ろしいのは死に損なって、一線から退いだ後に無様な姿を晒して息絶える事だ。剣闘士としてこれほど惨めなものはない。
瞑目したザットが刃を今か今かと待ち侘びていたが、一向に自分の頭蓋を叩き割る気配がない。
もしかすると、死んだ事に自分が気付いていないだけなのか……。目を開けると、剣と盾を構えてザットの前に立ちはだかる男の後ろ姿があった。
大層なマントを羽織り、同時に幾人もの相手をしている。
『ヴォルタリス、下がれ!』
どこからともなく声が飛んでくると、一気に味方の波に飲み込まれた。ここでやっと、ザットは助けられた事を悟った。
ヴォルタリス。世間に無関心なザットでもその名前を知っている。
“朱い稲妻”と呼ばれるヒルデンノース領主だ。
領主自ら敵の懐に飛び込み、見ず知らずの自分を助けたのだ。ザットは正直、感謝の念よりも馬鹿なんじゃないのかという思いの方が強かった。
『立てるか?』
ヴォルタリスが手を差し伸べる。
理解の及ばないザットは咄嗟にその手を取る事ができなかった。
敵を殺し、自分が生き延びるためなら他者をも、死体をも利用する。それがザットの価値観だった。
この男は領主という立場でありながら、正反対の事をやってのけたのだ。上に立つ者は配下の躰を盾にしてでも生き延びねばならない。どんな過酷な状況に置かれても、草の根を食らってでも生き延びねばならない。
ある意味では、ザットの生き方に共通するものがある。衝撃的な出会いだった。
これ以降、ザットはヴォルタリスの下で剣を振るい、終戦後には番犬として正式に仕える事になる。
拾ってもらったこの命、この男に捧げるのが道理だ。
自分ではなく他人の為に剣を振るう。ザットが自分の考えを曲げた、最初で最後の出来事だった。
身を潜めて見張っていた宿の一室の窓が開いた。魔法にはめっぽう弱いザットだが、身体能力では戦鬼族にも劣らないと自負している。
嵐で魔法が使えなくなった時が好機。嵐が頂点に達するまで、ずっと標的を監視していた。そしてそれが今夜だ。
奇襲をかけるはずだったのに、どうやら感付かれてしまったらしい。
器用貧乏ジェイク。大戦中も、龍の影に入ってからもその名前を聞いた。
過去に遊撃部隊を率いていた過去があり、自分の主と決別した男だ。その男が今更、なぜ姿を現したのか。
ジェイクが身を投げると同時に飛び出した。主に剣を向けるのであれば絶対に生かしてはおけない。
何の合図もしていないのに、ザットの思考を読み取ったように部下が二人飛び出していた。構えた槍を着地点目がけて突き出す。
二本の槍は壁を突き、嫌な音を寒空に響かせた。
『うがっ!』『ひぎッ!』
二人の後ろに降り立ったジェイクはすかさず膝窩を斬り付ける。
落下途中で壁を蹴って着地点をずらし、甲冑の弱点を正確に狙う手並みは見事と言う他なかった。太古の昔から今日の事が決まっていて、それを知っていたかのように無駄のない動きだった。
ザットは感服しながらも、間髪入れずに刃を滑らせる。不安定な体勢のジェイクを確実に捉えていた。
愛用するフランベルジュは波打った独特の刀身が肉を引き裂いて多大な苦痛を与える。致命傷とまではいかなくとも、一太刀浴びせさえすれば激痛に悶絶する。そうなれば勝ったも同然だ。
しかしザットは次の瞬間、目を疑う事になる。
ジェイクは大きく仰け反ると、躰を横断せんとする刃を蹴り上げた。
『な……ッ!』
一体どういう動体視力と心臓を持っていればこんな事をやってのけるのか。一瞬でもタイミングが合わなければ、足を失ってもおかしくはない。
今まで数えきれないほど闘ってきた中で、こんな躱され方をしたのは初めてだ。手から抜け落ちそうになった剣を慌てて握り直す。
『正気かよテメエッ!』
『暗い夜道で刃物振り回す馬鹿には言われたくねえな。怪我したらどう責任取るんだ?』
もっとも、既に怪我をした者が二人、悲鳴を上げてのたうち回っているが。
残りの身を潜めた兵士は動く気配がなかった。訓練を受けた兵士だからこそ、今の人間離れした動きを目の当たりにし、正面から挑んでも到底敵わないと悟っていた。
『コケにしやがってッ!』
ザットが吼える。片手持ちに変えた剣を大きく振りかぶる姿は、誰から見ても激昂しただけにしか見えなかった。
直線的で愚かな剣撃も並外れたその筋力なら、あるいは躱す余地を与える事もなくジェイクを葬るかもしれない。だが、それが希望的観測に過ぎない事を本人が一番よく知っている。
力に任せただけの攻撃では絶対に通用しない。
目の前で凶器が振り上げられると人はどうするだろうか。怯えて萎縮するか、反射的に凶器を凝視するか、大概がどちらかの行動を取るだろう。
戦士であるジェイクは当然後者だ。剣の動きを観察して迎撃に備える。
一見、逆上している風に見えるザットだが、頭の中は至って冷静だった。頭に血が上っては動きが単純になりやすい。そう思わせるのも、ザットの思惑の内だった。
剣を高く振り上げた事によって前に出た、もう片方の腕を伸ばす。
ジェイクの肩を掴むと同時に鋭く尖った爪を立てる。
『チッ』
さすがにジェイクも想定していなかったようで、いとも簡単に肩を掴ませた上に悪態を吐いていた。視線が肩を掴んだ腕に移される。無理に振り解こうとすれば肉が削ぎ落とされるだろう。
フランベルジュは比較的大きな剣だ。これだけ接近してしまうと本来の性能を発揮するのは難しい。対して、ジェイクの持つ双剣はやや小振りだ。ちょっと前に突き出すだけで、簡単にザットの腹に穴を空ける事ができるだろう。
ザットの取った行動は、自分を不利な状況に追い込んだだけのように思えた。
『がああッ!』
剣を手にしているからといって、何も終始剣で闘う必要は当然ない。武器なら他にもある。ジェイクが背負っている弓矢のように、ザットには生まれ持った補助武器があった。
強引に引き寄せて、向かってくるジェイクの喉元に狙いを定めて牙を剥いた。舐めた態度がこの結果を招いたのだ。あのいつかの戦鬼族の如く、喉笛を咬み切ってやる。
鮮血が舞った。




