90.心底
――自分の命を守るためとはいえ、これは他人の命を奪った報いなのか。
焦点が定まらない視界の中、地面に転がった淳平が身を起こすと、新鮮な血の匂いが漂っていた。
すぐそばにあった建物が倒壊し、民衆に襲い掛かったのだ。こうなる直前、軒を連ねる建物の隙間からまばゆい光が漏れているのが見えた。この状況が何らかの魔法による結果であろう事が簡単に想像できる。
両脇を背が高い石造りの建物に挟まれていて、護られているかのような安心感があった。しかし許容範囲を超える衝撃を受けると、凄惨な結果を生み出していた。
淳平の隣には男が立っていたはずだが、それが今は長い木材と入れ替わっている。木材を辿って下方を見ると、運悪く串刺しになった男が目を見開いて動かなくなっていた。
「あ……あぁぁ……」
耳に届く呻き声に誘われて周囲を見渡す。たくさんの生存者が目につく。だが、それと同じくらいの数だろうか、瓦礫の隙間から手や足が生えているのが確認できた。
もしこれが報いなのだとすれば、この状況を作り上げた張本人は一体いつ、どのような報いを受けるのだろうか。
……馬鹿馬鹿しい。
そんなはずがない。そうだとすれば、全員が死ぬまで続く負の連鎖だ。これは単に戦った結果に過ぎない。
それ以上でもそれ以下でもない。
……。
『愚かな。女神様の呪縛から解き放たれて尚、お前たちは争いを続けているのか?』
太陽を背に翼を広げ、メルティアーナがジータの頭上から舞い降りた。ヒイロナは何を見張っていたのか、とジータが怒りを覚えた。ひん剥いて裸にしておいたはずなのに、あの蒼い軽鎧を身に着けている。
今のこの状況下でこちらに気を留める者など一人もいない。
『何しに来たの? 引っ込んでなさいってあたし言ったよね? あなたには関係ない』
ジータは冷たく言い放った。わざわざ嫌味を言いに来たのだろうか、苛立ちが募る。
一瞬止まっていた戦場は既に息を吹き返し、再び剣戟の音を奏でている。
破城砲を生成したウィザードたちは魔力が尽きて、もう殆ど使い物にならないだろう。それでもさすがは領主直属の騎士団といったところか、都市の前衛部隊が押され始めている。
今までのあしらうような戦い方ではなく、敵を殲滅せんとする加減のない戦闘だ。前衛部隊には徐々に死傷者が出始めていた。
『お前たち何をやっている、やめろッ!』
破城砲から逃れ、一人だけ離れた場所にいるユージーンが怒鳴り声を上げる。
自分たちは侵略をしに来たのではないのだ。前面の防衛に回っていた部隊も加わっていて、殺さずに鎮圧する事もそう難しくないはずだ。なのに、誰の目から見てもわかる、過剰な攻撃を加えていた。
近くに怒れるドラゴンでもいるのかと思うほどの、巨大な咆哮が戦渦を駆け巡る。
聞こえていないはずがない。それでもユージーンの言葉は彼らに届かなかった。言いようのない狂気が満ちていた。
すぐに加勢に向かわなくてはいけない、とジータが戦場に足を向ける。このままでは前衛部隊は全滅してしまうだろう。そうなると、打撃を受けた都市はなす術もなく落ちてしまう。
『全く関係がないわけでもない』
メルティアーナの言葉にジータは足を止めた。
『どういう意味?』
『呪縛だ。この状況と結果、全てが彼らの意思でない事くらいすぐにわかる』
『あのね、あなた馬鹿だってよく言われない? 話が全く見えないわ』
『お前たちが女神様に植え付けられていたように、あの者たちにも何者かの呪縛が植え付けられている』
そう言って龍の影を見やる。
『ふーん、それでその呪縛とかいうのが、どうしてあなたに関係あるの?』
『呪縛というのは深層心理に植え付けられた呪詛……何らかの感情だ。そんな事ができるのは女神様の魔力、もしくはそれを模して作られた魔力だけだろう』
『ごめん、やっぱり何言ってるか全然わかんない。今はあなたの妄言に付き合ってる暇なんてない』
ヒイロナとの会話からもわかっていた事だ。やはり過去の真実が捻じ曲げられて伝えられていて、誰も生命の魔力の事を知らない。
多くの命を犠牲にして無理矢理昇華させた、禁忌に触れる魔力だ。力の強大さもあって隠匿されているのだろう。メルティアーナはそう自己解釈をした。
『詳しい説明は後でしてやる、彼らの心に干渉しろ。一方的に念話をした時の要領でいい、あとは私が誘導して争いを止めてやる』
有無を言わさぬ物言いにジータは逡巡する。
果たしてこの天使族を信用してもいいのだろうか。
『ミッキー!』
『はいはーい、りょーかい!』
目配せを受けたミクシードがメルティアーナの後頭部に手を当てる。
『いい? ちょっとでも妙な真似したら、その綺麗な顔を頭ごと吹っ飛ばすから』
『好きにしろ』
ジータが詠唱を始める。
使う色は無色。他の色とは違い万物に干渉する事のできる魔力だが、その力は非常に微弱である。普通は物を動かしたり、筋力増強、食料の保存などといった物理的な用途に使われる。
余程の才能と努力がないと、主魔法とするには厳しい魔力だ。しかし洗練さえされれば、アルテリオスの空間魔法、ジータとヒイロナが使う念話など、他では絶対にできない事を実現できる。
『できたわ。ここからどうする気? 何か良い脅し文句でもあるのかしら?』
『呪縛を排除する』
メルティアーナの手が光を帯びる。その手から発せられる魔力に、ジータが嫌な顔を隠さなかった。
異物が自分の中に入り込んでくるような感覚に襲われる。原因はジータの魔力に入り込んでいくメルティアーナの魔力だ。思わず振り解きたい衝動に駆られる。
ここまで近くで天使族の魔力を感じたのは初めての経験だ。なにしろ自分の中に入ってきているのだから。しかし不思議な事に、それは身近なものにも感じられた。
『この魔力は?』
『お前たちが使う序開層、浅短層よりも深い乖離層……我らは天の魔力と呼んでいる』
『乖離?』
疑問を投げかけようとした刹那、ジータは自分の魔力がわずかに引っ張られるのを感じた。ここでようやく、誘導するという言葉の意味を理解した。
浸食したメルティアーナの魔力によって、強制的に操作される。酷い不快感を覚えるが、しばらく好きにさせて様子を見る事にした。
その気になれば簡単に抵抗できる程度のものだし、いざとなればメルティアーナの命を握っているミクシードがいる。
詠唱を始めたメルティアーナの口調は、どこか棘のある言い方とは打って変わって、妙に心が落ち着く。優しさが染み入り平穏な気持ちが訪れてくるようだ。
目の前では相変わらず殺し合いが繰り広げられている。しかし、双方とも心なしか勢いが落ちているのが見て取れた。
いつの間に魔法を終えたのだろうか。あまり抑揚のない詠唱だったので、名前を呼んだ事に気が付かなかった。メルティアーナは翼を広げ、ゆっくりと浮かび上がっていく。羽ばたいていないところを見ると、天の魔力で浮き上がっているのだろう。
『流星の光槍』
斧槍を掲げる。
雷鳴とも錯覚する、腹の底に響く重圧と共に声が浴びせられた。
『愚かなる大地の民よ、静まれいッ!』
皆、戦争どころではない。振動が体を通り抜け、あまりの大声音に耳を塞ぐ。
『馬鹿、何を……ッ!』
ジータは言葉を失った。引っ込んでいろと言ったのに、それどころか視線を集めている。この場にいる全員が天使族の存在を認めてしまった。
『天使族……』
メルティアーナに目を向けた者たちは皆、ただただ唖然とするばかりだ。女神大戦での苦しみや恐怖、怒りといった様々な感情が渦巻く。
誰もが自分はどうするべきか、咄嗟に判断できずに困惑していた。
『私はかつて女神様の護衛をしていたメルティアーナという! 我が主の無念、晴らさせてもらおうかッ!』
高らかに上がる笑いを含んだその声が、本心ではない事にジータはすぐに気が付いた。
本当にそういう気であるのなら、わざわざ大勢の前で宣言をする必要はない。虚を衝いて襲えばいいのだ。軍隊を引き連れているのならまだしも、一人であるなら尚更だ。
敵の敵は味方。共通の敵を作り上げ、一時的にでも争いを止めようという思惑だろう。
ジータからすれば浅はかであるとしか言えなかった。話はこの場に留まらず、二つの大陸中に広がるのは明白である。そうなれば各地は女神大戦の再来だとパニックに陥ってしまう。
そこまで考えて、ジータはハッとした。
もし、この出来事全ての原因を天使族に押し付けたとすれば……。




