89.監獄の記憶
――この世界がどこで、あの世界がどこだなんて、本当のところは誰もわからない。
もしかすると、亜空間を自由に行き来できる女神ですら、それを知らないのかもしれない。
『メルティアーナ、すぐに準備なさい』
空中庭園で人間に敗れてどのくらいが経ったのだろうか。亜空間の中では時の感覚がまるでない。いや、そもそも時という概念が存在しない。
ある時、メルティアーナは宮殿の露台に呼び出された。そこから見える景色は殺風景なものだった。
どこまでも果てしなく黒、その一色だけ。わずかな光も差さない暗黒の世界だ。
この宮殿だけが女神の魔力に包まれて光り輝いている。もし遠くから宮殿を望めたとすれば、闇夜に浮かぶ一点の星に見える事だろう。
誰がどう見ても見えるのは漆黒だけ。しかし女神はいつもこの場所から外を眺めている。きっと彼女だけには他の何かが観えているのだろう。
メルティアーナには、女神の言葉の意味が汲み取れなかった。
『恐れながら女神様、準備とは一体――』
女神は愉しそうな笑顔を向ける。
『帰る時がやってきたのです。成長したあの子たちは、わたくしをより愉しませてくれるでしょう』
“あの子たち”とは、空中庭園で死闘を演じた人間たちの事だ。そのくらいはすぐに理解できた。
『地上では既に何百年と過ぎていますが……あの子たちは今も生きていますよ』
次に出てきた“あの子たち”が一体誰を指すのか、今度は理解できなかった。
何百年と過ぎているのなら、当然、メルティアーナの知る顔はもう誰もいないはずだ。もっとも、空中庭園での戦争で殆どが死んでしまっているが。
『ジェイク・エイルヴィス・イーストウッド』
女神の言う名前を聞いて、眉根を寄せる。生きているはずがない。
『シャルーモ・シャリュモー、ヴァリハ・ホークアイ、サンポーニャ・エイルヴィス・ウェストウッド』
メルティアーナの脳裏に惨劇が呼び覚まされる。
割れた大地と共に雲の大海へ呑まれる人間。思わず目を逸らしてしまう、元が何であったか判別しようのない死体の山。生きたまま樹木へと姿を変えていった人々。想像を絶する苦痛を伴ったのだろう、あの絶叫と形相は忘れたくても目に焼き付いて離れない。
『リズイズは……惜しいですね。彼女がいればもっと愉しめたでしょうに。でも、仕方ありません。あの子たちは偽りの魔力を使って、今も生きています。わたくしが帰って来る時に備えて』
女神は、あの悲劇を再び繰り返そうと言うのだ。
前回は人間たちが望んで始めた事だ。間違っているとわかっていながらも、仕方のない事だと現実から目を逸らしていた。自分には女神を護る使命がある。
だが今度は違う。女神が進んで自らやろうとしている。
メルティアーナは思った。
この女を解き放ってはならない。
『流星の光槍』
名前を呟くと、メルティアーナの手に巨大な斧槍が握られた。一見華奢に見える彼女の腕には似合わない、燦爛たる装飾が施された斧槍だ。
女神の見せる笑みは、かつてのような慈愛の笑みではない。人の味を知った、飢えた獣にしか映らない。
背を向けた女神に斧槍を振り上げる。
『そう、貴女もなのですか?』
振り下ろす直前、女神は呆れた声を発した。同時に、冷水をかけられたように身体が強張り、ただの一寸も動かなくなる。
『ハーディもわたくしに口答えをしてきましたわ。あまりに煩かったので、軽いお仕置きのつもりだったのですけど……』
変だとは思っていた。護衛隊長であるハーディを差し置いて、なぜ副隊長であるメルティアーナに命じられたのか。
簡単な事だ。もうハーディはいないのだから。
『ハーディに次いで、貴女まで失いたくはないのです。少し頭を冷やしていらっしゃい』
次の瞬間、メルティアーナは闇に包まれた。
突然の事に、今、自分がどういう状態にあるのか、理解が追い付かない。
果たして目を開いているのか、瞑っているのか。立っているのか、座っているのか。
何も見えず、何も聞こえない。自分の鼓動の音ですら聞こえてはこない。動こうにも力を吸い取られているかのように、指一本動かす事ができない。魔力も同様、深い闇の中に溶けていくかのようだ。
メルティアーナはこれが、監獄である事を理解した。
五感を奪われて、どれだけ正気を保っていられるだろうか。
しばらくして、そんな心配は無用だと思い知らされた。気が触れて、自我を失う事ができればまだ楽だったかもしれない。
思考はいつまで経っても冷静なままだった。
永遠とも思えるような、或いは、それはほんの短い時なのかもしれない。時という概念がなく、五感の奪われた状態ではそれを把握する術は無い。ただただ何も無い空間を果てしなく漂う。
ある時、動きを感じた。
絶対的な無の中に感じ取った不思議な感覚。世界が流動している。本能的にそれがわかった。
次に感じたのは人の気配だった。
一人は女神、一人は懐かしい気配、一人は誰だかわからない。
(ジェイク……ッ!)
女神とジェイクが戦っている。激しい旋律のあと、女神の気配は消えて無くなった。
目を覚ますと、木の天井が目に入った。
今までのあれは夢だったのか、そう思った。
少し視線をずらすと、見覚えのない黒髪の少女が目についた。
『ここは、どこだ……』
…………。
ヒイロナを振りきり、メルティアーナは斡旋所の屋根から都市を望む。
途轍もない音と共に大地が震えた。何かが起きている、それを確認したかった。
そして女神の言っていた“成長”を目の当たりにする。
都市が破壊される様を目にした者はいなかった。魔法を放った本人たちでさえ、あまりの眩しさに直視する事ができなかったのだ。
実際、目を向けていた者の多くが一時的に視力を失っている。突然暗くなった視界にパニックを起こし、苦痛とはまた違った悲鳴が響いていた。
門のあった場所にはもはや何も無く、その奥の広場では瓦礫が山になっていた。それは壁の物だけではなく、付近の建物も含まれている。
被害は西門だけに留まらない。巻き上げられた瓦礫の一部が、まるで隕石のように都市全体に降り注いだ。
それは人や物を区別せず、あらゆるものに容赦なく突き刺さる。運悪く支柱を破壊された建物は倒壊。人は原形を保っていなかった。
誰もがその惨状に目を奪われる。
強過ぎた。
虹姫の存在を確認し、予定していたよりも大幅に規模を拡げたのだ。彼女なら、ひょっとすれば破城砲すら無力化しかねない。そう考えての変更だった。
ユージーンに気を取られていたためか、それとも強大さ故に成す術がなかったのか、理由はわからない。
予想されていたジータの抵抗が見られずに、魔法が直撃してしまった。
ジータが何らかの方法で妨害し、少なくとも本来の半分以下のエネルギーで都市に衝突する計算だった。虹姫という名前を信頼しただけの、何の根拠もない、冷静に考えれば正気の沙汰とは思えない愚かな行為だ。
『なにこれ……これを人間族が……ありえない』
少し離れた場所にジータとミクシードは立っていた。崩れた都市を見て、ミクシードはうわ言のように呟いている。
龍の影の目論見通り、確かにジータが正面から魔力をぶつけても、破城砲を完全に相殺する事はできなかっただろう。ユージーンに構っていたのだから尚更だ。
それでも、かなりのエネルギーを軽減させる事はできた。行動に移せなかった理由はミクシードの存在だ。
のぼせて身動きの取れないミクシードは死んでしまう。友達か、少し縁があっただけの都市か。二つを天秤にかけた結果、ジータは友達を選んだ。
破壊力はジータの想像をもはるかに上回っていた。
全体の四分の一を抉られ、残った場所も大きな損傷を受けている。その無残な姿を前に、誰も動こうとする者はいなかった。




