81.塔上の闘い
――アルテリオスは記憶を遡る。
あれは花火を打ち上げた夜から数日後の事。アリスティアに進言をした時だった。
心労が溜まり、その時のやつれようは見るに耐えないもので、目には真っ黒な隈が浮かび、美しかった髪からはすっかり光沢が失われていた事を記憶している。
騎士団に関する事で会話をしていたのだが、話が進んでいくうちに、思いもよらぬ方向に向かった。
『もし、わたしに何かあったら、ノット先生には気を付けて』
疲れきった体を椅子に預け、アリスティアはそう告げた。
『ノット? 軍議に乱入して来た、あのウィザードの事かの?』
一夜で勢力の膨れ上がった龍の血族では、既存兵と新規兵との間で深い溝が出来上がっていた。それだけではなく、元参謀とはいえ、今は部外者である者に内部情報を漏らしてしまった。そのせいで不信を抱く者を多く出してしまったのだ。
そういった事が重なり、アリスティアの疲労は限界に達していた。
言葉の意味がわからなかったアルテリオスは、続く言葉を待つ。
『あの人はたしかに優秀よ。でも、狂ってるわ。わたしが騎士団を継承した時にこう言ったの』
――領民も皆殺しにするべきだよ。英雄だなんだと崇めておいて、私達の窮地を見てみぬふりだよ? 死んで当然の奴らだよね。
『狂っとるのう。領民に罪は無かろうに』
『だから、先生には騎士団を抜けてもらったのよ』
『よく承諾したもんじゃの?』
『最悪、わたし達が敗れて全滅した時のための、最後の砦になってくださいって言ったら、意外とすんなり受け入れてくれたわ』
アリスティアは苦笑する。
彼女の人生における最初の失敗は、情に流されてノットを始末できなかった事だろう。
『ヴォルタリスはその事を知っておるのか?』
『いいえ、言ってないわ。時期を見て伝えようとは思ってる』
『ふむ……そこは姫の判断に委ねよう』
『わたしに何かあったら……きっと、あの人は……』
……。
ルーレンシア領に向けられるはずだった狂気は今、ヴォルタリスとヒルデンノース領に向けられている。
アリスティアは結局、ヴォルタリスには伝えられず終いだったらしい。直筆の手紙でも残っていればよかったのだが、生憎そんな物は無い。
アリスティアの言い付け通り、ノットの動向には目を光らせていた。だが、表向きには不審な行動など見られず、それどころかヴォルタリスを度々助けてくれていた。
杞憂だった。そう思い、安堵しかけていた矢先の事だった。
ジェイクがにわか信じ難い話を持って、目の前に現れたのは。
『この資料ならば証拠としては十分じゃ。ついでにお前さんの首も添えて提出してやるわい。これで万事解決じゃの』
『ふふ、老いぼれごときが私を殺れるのかな?』
殺気を放つアルテリオスに対して、ノットは余裕の表情を浮かべる。その態度は自信に満ち溢れていた。
『なんだ、来ないの? じゃあこっちから行かせてもらうね』
言って、ノットが右手を前にかざす。
『……え? あれ、……え?』
ノットの口から漏れたのは、魔法の詠唱ではなく困惑の声だった。
『どうしたんじゃ? そっちから来てくれるんではないのかの? それとも、その腕ではやはり無理じゃったか』
かざした腕には、あるべきものが無かった。肘から先にかけてが丸ごと、視界から消えていた。
視線を少しずらすと、皮一枚で繋がった腕が力無くぶら下がっている。それも束の間、自重に負けてぼとりと落ちてしまった。
血が滝のように流れ出ている。傷口を見ると、それは爆発にでも巻き込まれたかのような有様だった。切断面はズタズタで、飛び散った血と肉片がローブを汚していた。
腕が落ちたのを理解すると、ようやく痛みがやってくる。
アルテリオスに動きはなかった。なのに、気が付かないうちに腕を失っていた。脳がそれを認識できずに、痛みすら感じないままに。
『おまえ……何をした! ――深森の誘い!』
取り乱した様子で魔法の名前を呼ぶと、部屋がたちまち深い霧で包まれる。
すると、霧の中にいくつもの球体が浮かび上がった。目には見えなかった水泡のようなものが、空気に揺られて漂っている。
『こうも魔力が乱れておっては、さすがのお主も気付けなかったようじゃの』
『なんだ……これは』
千切れた腕を拾い上げて球体にぶつける。
触れた瞬間、音も無く破裂して、腕は弾け飛んでしまった。
『これは……圧縮した空間の塊?』
触れると魔力の球体が破裂し、圧縮された空間が解放される。その際、爆発的な衝撃を生み出し、周囲にある物を破壊する。
ノットは腕を伸ばす時に、運悪く球体に触れてしまったのだ。
アルテリオスは家捜しと並行して、万が一に備えて戦闘の準備を終わらせていた。
部屋は目に見えない浮遊地雷原と化している。踏み込めば何者であろうとも命は無い。
ウィザードの一騎打ちは通常、詠唱の少ない低級魔法の応酬となる。長々と詠唱していては、どうぞ殺してくださいと言っているようなものだ。
その中で隙を作り出し、決め手となる魔法の詠唱を完成させる。ノットが球体に気を取られているうちに、アルテリオスは既にその詠唱を終えてしまっていた。
『まだまだ青いのう。それを知ったところでもう遅いわい。――理不尽な要求を呑み込め、不等価交換!』
ノットの体が一瞬にして中に引きずり込まれる。否、引きずり込まれると言うよりは、瞬間移動したと言った方が正しい。
扉付近を漂う球体に触れる事なく、ノットが部屋に姿を現す。
『がふッ!』
転移と共に触れた球体が破裂し、脇腹と右足を失ったノットは床に崩れた。
先ほどまでの余裕は無く、震える体で這いずる。部屋を覆う霧は晴れ、浮遊する球体が太陽の光を受けて輝いていた。
『が……そんな、バカな。ゴボッ!』
無様に地を這う背中を、アルテリオスは観察するように見送る。
哀れな姿だ。事実がどうなのか、ノットの心中はどこにあるのか、本当のところはわからない。しかし、ヴォルタリスに、ヒルデンノース領にただならぬ憎悪を向けている事だけは確かだ。
おそらくはヴォルタリスが領主に就いてから何年もずっと、機会と手段を窺っていたのだろう。そんな男が何を為す事もなく、今、憎悪に囚われたまま命を散らせようとしている。
アルテリオスからすれば、それは哀れという以外に他無かった。
何か悪足掻きをしてくるのでは、と警戒していたが、そういった素振りは見られない。ただ必死に背を向けて、この場から逃れようとしているだけだった。
『お前さん、たしか光と水の混合魔法……幻の使い手じゃったか?』
目の前で虫けらのごとく這いずる男は、間違いなく幻ではない。幻は所詮幻。空間魔法が実体の無い幻に干渉する事はない。
決して惑わされる事のない空間魔法は、幻影魔法とは相性がよかった。
ノットは柱の陰まで這いずったあと、背を向けたまま動きを止めた。
『ふふ……あはは、あははははは!』
『何が可笑しいのかの? 気でも違ったか』
『だってさ、凄いんだよほら!』
身を捻って右腕を見せ付ける。
そこには、弾け飛んだはずの右腕が、綺麗な形で伸びていた。それだけではなく、右足もいつの間にか元に戻っている。破れたローブからは抉れたはずの脇腹が、何事も無かったかのように覗いていた。
『凄いよ! これが生命の魔力の力か!』
甲高い声を上げながら、柱に手をついて立ち上げる。
肉体を極限以上にまで活性化させた魔力が、消し飛んだ部分も含めて、傷を一瞬にして治してしまっていた。
『なんという……ならば、今度は一瞬で葬ってやろう!』
『無理だね! 気が付かない? 私がどうして球体に触れずに立ち上がれたのか!』
言われて、ノットのすぐ側を漂う球体に目をやる。太陽の光を反射している。
自分の魔法だ。魔力を感じ取り、どこにあるのか視覚的に把握する事ができる。だから、気が付かなかった。
魔力の球体が光を反射して輝く事はありえない。
『……水膜か』
水が球体を包み込んで膜を張っていた。それらはノットの目にも映っている。
だからといって、少量の水程度では、圧縮した空間の球を破壊する事などできない。せいぜい触れてしまわないよう、気を付ける事ができるくらいだ。
戦闘において、それがあまり意味を持つとは思えなかった。
『見えたところで何も問題は無いの。お主にはどうする事もできん』
『うん、そうだね。ところでさ、君は砂漠に行った事があるかな? 一日、肌を晒してるとね、その部分は火傷してしまうんだよ』
『無駄話はよい!』
また唐突に関係のない話をし始める。
意味の無い会話に付き合うつもりはなかった。アルテリオスが動く。
大きな魔法は必要ない。無色の魔法で衝撃を放ち、ノットを後方に吹き飛ばすだけでいい。そうすれば、あとは球体が勝手に始末を付けてくれる。
入室したその時点で、ノットの敗北は決定していたのだ。
『あはははははははッ!』
ノットの笑い声と共に、白い閃光がアルテリオスを射抜いた。光の魔法による目眩まし、極めて幼稚な手だ。
しかしノットのそれは、そんな生易しいものではなかった。
『あ゛……ッ!』
アルテリオスが手で顔を覆い、呻き声を上げた。
詠唱破棄による、光を放つだけの魔法だった。なのに、まるで焼かれたかのような激痛がアルテリオスを襲った。
操作していた魔力が霧散する。痛みに耐え切れず、完成間近の魔法を手放してしまった。
『あはははは、この水泡はレンズだ! 集中した光をさらに凝縮させて、破壊的な光線を作り出す!』
もちろん、ただの水泡ではそんな事は不可能だ。
アルテリオスによって圧縮された空間。そこを通る事によって、光のエネルギーが極限まで濃縮される。
魔力の光が、アルテリオスの眼を焼いてしまっていた。
『貧弱な魔法光ですらその威力さ。なら、それが太陽の光だったら?』
アルテリオスは背筋を凍らせた。
気温が下がっているとはいえ、日差しは強いままだ。光の魔力で手繰り寄せられた太陽光が、レンズを通して一斉に自分に降り注いだとしたら……。
ノットは柱の影に入っていた。無様にも這いずっていたのはこのためだ。
『黒焦げになりなよッ!』
ノットが嬉々とした声を上げる。
部屋が、まばゆい光で満たされた。




