73.領都ヒルデン
太陽の光を所狭しと並ぶ建物が遮っている。ほとんど日か当たらないので、雨で出来た水たまりは乾きにくく、悪臭を放つ事もしばしばだ。
獣人族は靴を履く習慣のない者が多い。動物の足に靴など邪魔なだけだ。ペルーシャも生まれてから一度も靴を履いた事がない。いつも裸足だ。
裸足で濁った水たまりを踏むのは気持ちが悪い。足元をちらちらと気にしながら細い路地を行く。
突き当たりに見えた人影は右へ曲がった。残された匂いを嗅ぎ取ると、ペルーシャは反対の左へ曲がる。
入り組んで迷路になった路地を適当に進む。
しばらく歩き回って追跡の無い事を確認すると、一軒の古びた建物に身を隠した。
扉が微かな音を立てて閉まる。
窓という窓は全て雨戸で塞がれていて、中は真っ暗闇だ。夜目の利くペルーシャには問題ない。
汚い外観とは違い中は小奇麗で、先ほどの人物の匂いが残されていた。
『おかえりなさいませ、お嬢様』
蝋燭の火が灯る。
闇に浮かぶ侍女が恭しく頭を垂れた。
『誰や』
これは侍女に向けた言葉ではない。
彼女の事はよく知っている。ペルーシャのお世話係、エヴリーヌだ。
匂いを嗅いだ時、執事のジーニアスでなかった事に内心ほっとしていた。エヴリーヌが持って来るのは縁談ではなく、任務だ。
おそらく今回は暗殺命令だろう。
このタイミングとなると、対象はジェイクか。
領主のヴォルタリスが抱き込まれているのだ、彼以外に心当たりは無い。
『標的は領主、ヴォルタリス様でございます』
予想だにしていなかった人物の名が挙がる。
『ニャんやて?』
領主暗殺の命など尋常ではない。最後の領主暗殺は百年以上も前、バアムクーヘン領だったと記憶している。
まさか自分の代で当たるとは、夢にも思っていなかった。
『それで?』
『ヴォルタリス様も我々が動く事は想定の内でございます。当然、警備も厳重なものになる事が予想されます。今回はお嬢様の他に、四人が動きます。詳細は――』
『ちゃうちゃう、理由や』
ヴォルタリスは良い領主だ。いつも民の事を、王国の事を第一に考え、女神大戦での功績も大きい。民だけでなく、現国王からの信頼も厚い。
それがなぜ突然の暗殺なのだろうか。
普段ならば特に理由を聞く事もなく、ただ与えられた任務をこなすだけだ。
『領内に点在する兵が秘密裏にリスモアへ向かっております。見事なまでに自然な動きで、私共も気が付くのに遅れてしまいました。昨夜、龍の影本隊も地下道より出立した模様でございます』
『ニャんやそれ、ニャんでや?』
『はっきりとした目的は未だ掴めておりません。しかしながら、民や国王様に隠れてのリスモア出兵は反逆罪とみなされます』
アイゼル王国とリスモアは良き隣人でなければならない。リスモアには国は存在しないが、各都市が団結して争いになると、下手をすればその力は王国をも凌駕するとも言われている。
いきなり王国の軍隊がリスモアに押し寄せたとなると、戦争の火種にならないとも限らない。国王への連絡が間に合うとは思えず、この暗殺計画はヒルデンノースの貴族たちが独断で推し進めているのだろう。
他に動く四人の詳細を聞き、踵を返す。領主暗殺……生きて帰れる気がしない。
ペルーシャは大きくため息を吐いて扉に手をかけた。
『お嬢様』
『ニャんや、まだニャんかあんの?』
『旦那様が大変お怒りでございます。任務が終わり次第、屋敷に戻るようにと』
ふん、と鼻を鳴らす。
生きて帰れたらニャと言い捨てて、ペルーシャはその場を後にした。
……。
学人達は周辺街を真っ直ぐに抜けて領都の門へ向かう。一旦ジェイクと別れ、中を偵察するためだ。
門前は少し混雑している。伸びた列の後ろに並んでいると、アシュレーが財布を取り出した。
『銀二だっけ?』
『たしかそのはずですわ。五人なので十枚ですわね』
急にお金の話を始めた。
まさか領都でのお小遣いの話ではないだろう。
列が前に進むと、その意味がわかった。入場料だ。
出入する人間の把握と、余計な者が入り込まないようにしているのだろう。今までに見た一番安い宿で一泊銀貨一枚だ、なかなかにボロい商売をする。
『そういえばさ』
学人にふと、疑問が浮かんだ。ペルーシャの事だ。
彼女は名の通った盗賊だ。手配書が出ていてもおかしくはない。
『それが、あの猫の手配書は見た事がありませんの』
『え? そうなの?』
『なんと言ったらいいのか……。何か被害があったという話も聞きませんし、名前だけが一人歩きをしているような。そもそも、なぜ黄金の爪と呼ばれているのかもわかりませんわ』
不思議だ。ペルーシャの身の上話は聞いた事がない。
とりあえず、今は手配書が出ていない事が確認できればそれでいい。
門を抜けると景色は一変した。
家々が整然と立ち並んでいて、周辺街よりも空気が澄んでいる。
石畳ひとつとっても上等な物で、清掃が行き届いていて清潔感にあふれている。道行く人々も身なりが良く、要するに裕福層なのだろう。
『とりあえず、宿かな?』
アシュレーが提案する。
これからの相談をしたり、腰を落ち着ける場所は必要だ。宿もやはり高級感の漂う、高そうな所しかない。
ペルーシャからかなりの金額を預かっているので、懐の心配はない。適当に目に付いた宿を確保する事にした。
手荷物を置くと、学人の部屋に全員が集合した。
『ガクト様、それは?』
学人が手に持った紙の筒を見て、ソラネが訊ねる。
これはジェイクに持たされた手紙だ。どこか安酒場で、アルテリオスという人物を探して渡すように言い付けられている。
この高級な街のどこに安酒場などあるというのか、甚だ疑問だ。
『兵士御用達の酒場じゃないか?』
ワッツには心当たりがあるようだ。
領都は日が落ちると門が閉ざされてしまう。そうなれば城の兵士と言えど出入りする事ができない。
そういった兵士のために、どこの領都にも一軒は安価の大衆酒場があるそうだ。もちろん兵士専用というわけではないので、一般の客も入る事ができる。
それぞれの役割分担を決めていく。と言っても、誰がどの辺りを見て回るかというだけだが。
学人は自由行動、酒場探しだ。
学人達が領都に入ってしばらく、ジェイクは周辺街をぶらついていた。
街の構造を調べておくためだが、他に用事は無い。ただの時間潰し、つまり退屈だ。
警備兵に喧嘩でも吹っ掛けてみようか、などと考える。さすがに騒ぎを起こすにはまだ早い、冗談にならないのでぐっと堪える。
『おっと』
肩に軽い衝撃があった。余所見をしていたら人とぶつかってしまった。
一部が金属で補強された、革鎧を着た兵士だ。
『失礼しました』
巡回中の警備兵なのだろう。頭を下げるとまではいかないが、事を荒立てないようにとすぐさま謝罪の言葉を口にしてくる。
目が合ってしまった。
目立たないようにフードローブを被っていても、この至近距離では何の意味も無い。
『良い一日を』
警備兵はそう言うと通り過ぎて行った。
周辺街の兵は見習いや正規兵ではない三流の者たちだ。単に気付かれなかっただけなのか。
その後も正規兵とおぼしき者とすれ違うが、至近距離であっても全く気にされない。
領主が直々に発行する賞金首など滅多に出ない。普通は最重要人物として、出ればすぐに周知される。まさか知らないというわけはないだろう。
妙だ。
ジェイクの足は門に向けられた。
フードを取り、堂々と門に差し掛かる。
門前に十人以上、両脇にある監視塔の出窓にも複数いる。
門の警備だ、周知されていないはずがない。普通に考えれば、いや、考えなくてもバレて騒ぎになるのは明らかだ。
そうなると後で学人に文句を言われるだろうが、それでも確かめてみたくなった。
警備兵の視線がジェイクに注がれる。
『一人か?』
『俺の隣にボインのおねーちゃんでも見えるか? 見えたら重症だ、休暇でももらえ』
『銀貨二枚だ』
予想に反して警備兵は事務的な態度を取る。
入場料を払うと、すんなりと通る事ができてしまった。一体何の為の警備なのか。




