6.景色
電気のスイッチを入れてみる。
コンロの点火ダイヤルをひねってみる。
水道の蛇口を開けてみる。少し水が出たと思ったら止まってしまった。
どれも使えない。
マンションならば貯水槽がある。そこに水が残っている間は、水道は使える物だと思っていた。
地震で壊れてしまったのだろうか。
次いで冷蔵庫を開ける。
二リットルのミネラルウォーターが一本。
食料品は卵にハム、焼きそば麺、梅干、キャペツくらいのものだ。
棚を調べると即席麺、缶詰が出てきた。
食べられそうな物をまとめてテーブルの上に並べる。卵は止めておいた方がよさそうだ。
三人で食べるとなると、二食分がせいぜいだろう。学人は水と缶詰を持って、寝室に向かった。
「食べ物持って来たよ」
言葉が通じないのは承知の上だ。それでも声をかけながら部屋に入る。無言で入って怪物と間違われてしまうと命に関わる。
部屋に入ると、学人は口を結んだ。
ヒイロナがベッドに寄り掛かって寝息を立てていた。
酷く疲弊していたのだ。このまま寝かせておいた方がいいだろう。
学人はグラスに水を注ぎ、開封した缶詰を置いて部屋を後にした。
リビングに戻り即席麺をそのままかじる。
腹が満たされると、今度は煙草に手を伸ばした。灰皿が見当たらなかったので、適当に食器を使う。
ジッポーの軽い金属音が響き、リビングに煙草の匂いが漂い始めると、人の気配を感じた。
「起きて大丈夫なの?」
森林族の男、ジェイクだ。学人の言葉に答える事なく脇腹を押さえながら、空いた椅子に腰を落とした。
静かではあるが、刃の様な鋭い眼光を向けられて萎縮する。
学人がどうしていいかわからずに困惑していると、ようやくジェイクの唇が動いた。
『そりゃあ煙草か? 悪いが一本もらうぞ』
言いながら、勝手に煙草を手に取る。
フィルターの部分を見て、ジェイクは首をかしげた。
『おい、なんだこりゃあ?』
学人がフィルターを咥え、火をつけるジェスチャーをすると、ジェイクもそれに倣い煙草を咥えた。
彼らの世界にも煙草があるのだろうか。煙草は古代マヤ文明の時代にもあったと聞く。異世界にあったとしても何ら不思議ではない。
学人がジッポーを差し出すよりも早く、ジェイクが指を擦り合わせた。
一瞬火花が散り、煙草に火がつく。
驚きはしたがファンタジーに出てくる森林族なのだ。魔法でそのくらいは造作も無い事なのだろう。
『美味いなこれは。タンバニアのとは大違いだ』
ジェイクは煙草を一吸いすると、初めて学人に笑顔を向けた。
鋭い目つきのジェイクに縮み上がっていたが、学人はその笑顔に少し胸を撫で下ろした。その様子を見ると、気に入ってくれた事がわかる。
『寝ぼけたロナが抱きついて来やがってよ。痛みで目ん玉が飛び出すかと思ったぜ』
ジェイクは言葉が通じないのもお構い無しに、学人に喋り続ける。
どういった人柄なのかわからない上に、言っている言葉がわからないので、下手に愛想笑いもできない。気分を損ねると、躊躇無く噛み付いてきそうだ。
学人は目の前の森林族から、そんな雰囲気を感じ取っていた。
「煙草、ここに置いておくから好きに吸ってくれていいよ」
なんとなく居辛くなった学人は席を立った。既に日が傾き始め、家の中が夕闇に沈み始めている。
まだ視界の明るいうちに明かりを用意しておきたい。
まだ手を付けていない場所を物色し始める。
救急箱を探していた時に、登山用ザックを見かけていた。もしかすると、キャンプ用品がどこかに眠っているかもしれない。
ふと、落ちている本に目がいった。
文字ばかりの難しそうな本だ。注目すべきは本の内容ではなく、背表紙に貼られているラベルだ。市立図書館と書かれている。
あの二人がこれからどうするつもりなのかはわからない。おそらく今後の予定など決まってはいないだろう。
学人としては身の安全を考えて、彼らと共に行動したい。
二人からしても、異世界の人間が一緒の方がいいだろう。ここは彼らの常識では考えられない物であふれているのだ。
それに、どこかで救助の手があれば、彼らの事を説明できるのは学人だけだ。
つまり、お互いに利害は一致すると考えられる。
その為に意思疎通を図る事は必要不可欠だ。
何か図鑑の様な本でもあれば便利かもしれない。ジェスチャーだけでは限界がある。
問題は図書館がどこにあるのか、だ。
電池式のランタンを発掘してリビングに戻ると、ジェイクの姿が見えなかった。
寝室に戻ったのかと思い少し安堵していると、ベランダから声がした。
『おい、ここはどこだ?』
見ると、ジェイクがベランダに出て町の景色を眺めていた。
その後姿からは、少し呆けた印象を受ける。剣や弓の様なレトロな武器を持っていたのだから、おそらく彼らはここまで高度な文明は持っていない。
そう考えると妙に落ち着いている。
自分にとってわけのわからない物に囲まれているのだ。もし逆の立場だったら、学人なら不安に押し潰されているだろう。
ジェイクからはそんな様子が一切感じられなかった。
「明かりを点けるから中に入って」
そう言って、手招きをする。
学人の手にしたランタンを見ると、ジェイクは納得した様子で素直にそれに従った。
カーテンを閉めてランタンを灯す。
それ以上会話の無いまま夜は更け、学人はいつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、三人で食事を済ませると、ヒイロナは昨日と同じ様にジェイクの手当てを始めた。
特に手伝う事の無い学人は、広告の束に目を通していた。
重要なのはスーパーなど、店舗の広告だ。少しでも近隣の情報が欲しい。
一枚のチラシを手に屋上へ向かう。
屋上からは町が一望できた。
たまにどこか遠くから音が鳴る。怪物が何かを壊した音だろう。それ以外は相変わらずの無音だ。
静寂に包まれた町を眺めていると、自分以外にはもう誰も生き残っていないのでは、とも思えてしまう。
実際、あの二人以外には生存者を見ていない。怪物に抵抗を見せていた警察署はどうなったのだろうか。
視線を遠くに飛ばすと異変に気付いた。
町が突然途切れて、緑色の大地が広がっている。草原だ。
ほんの数日前までは、あんな場所に草原など無かったはずだ。あれはこちらの世界、日本では無い。
考えられるのはジェイク達の世界だ。どうやらジェイク達だけではなく、世界そのものも来ているらしい。
救助が来ない答えが、そこにあった。
同時に疑問が浮かぶ。元々あそこにあった町は一体どうなったのだろうか。現状では推測する事もできなかった。
気を取り直してチラシを見る。
多くの店舗を構えるスーパーのチラシで、簡単な周辺地図も描かれている。
このスーパーを見つける事は容易い。このスーパーの入っている建物の上には、必ず派手な看板が建っている。それはすぐに見つける事ができた。
傾いてしまっているが、電飾が沢山付いた目立つ看板だ。
よく見ると、傾いているのは看板ではなく建物の方だ。一階部分が押し潰されているのかもしれない。
マンションからあまり遠くなく、歩いてでも行ける距離だ。チラシにある案内地図と見比べて、周辺を注意深く観察する。
地図には目印として、図書館の位置が記されていた。
それらしき建物を確認すると、今度は道筋の確認をする。
マンションの裏側には片側一車線の車道が走っている。それを少し西に進み、交差点を南へ曲がってそのまま真っ直ぐ行けば図書館だ。さらに進めば草原に繋がっている。
事故車が道を塞いでいる様な事も無ければ、損傷も少ない。確保ができるのなら車での移動も可能だろう。図書館まで、となるとそれなりの距離がある。できれば車を確保したい。
確認を終えると、学人は踵を返した。
反対側にもやはり崩れた町並みが広がっていて、遥か遠くには山脈が伸びていた。もちろん数日前には無かった物だ。
少し不安がよぎる。
本当に彼らが来たのだろうか。
「あれ……?」
違和感。
しかし、それが何なのかはわからない。
「まあいいか……」
違和感の正体がわからなくても、現状では何の問題も無い。然るべき時が来れば明らかになるだろう。
そう思い、学人はあまり深く考えない事にした。