59.可能性
ヒイロナはシノから離れようとしなかった。
泣きじゃくるヒイロナに抱き付かれて、シノは助けを求める視線をジェイクに送っていた。ジェイクは苦笑いで返しただけで、二人を残して部屋を後にした。
再起不能の重症を負っているものの、意識ははっきりしている。廃人になってしまったというわけではないらしい。筆談であれば会話もできそうだ。
枯れた生命の樹を見上げる。
何の感慨も無い。
次にジェイクの向かった先は、里の長達のいる建物だ。
建物を警備する者などいない。ジェイクはノックもせずに扉を開けた。
『よう、俺だ』
敬意の欠片も無く、まるで友人の家にでも来たかのように声を投げる。
中では森林族の長が三人、そして戦士が二人、何かを話していた。有事の際は、この三人の長が話し合いをして決める。
『お前は……たしか、ジェイクか? 礼儀をいうものを知らんのか!』
戦士の一人が恐い顔でジェイクに迫る。面倒なので適当に謝っておく。
ジェイクが長達に目を向けると、長の一人が戦士達に席を外させた。三人の中でも年長で、髪が白く染まった老齢のエルフだ。
部屋は長の三人とジェイクだけになり、老齢の森林族が肩で嘆息した。
『ジェイク、他の者の前ではあれほど』
『あー、わかった悪かった。俺が悪い。全部悪い。樹が枯れて騒ぎになってるのも、俺がハンサムなのも、全て俺が悪い』
長の小言を遮る。そんな事を言われる為にここへ来たわけではないのだ。
早速本題へ入る。
『今立ち入り許可が出てるのはノットだけか?』
『いや、あと獣人族のペルーシャという者にも出ている。ノット殿の助手だそうだ』
『じゃあもう一人追加しといてくれ。名前はヤマダガクト、異人の男で背丈は俺と同じくらいだ。見た目は人間族と変わらない』
『皆になんと説明する……』
『それを考えるのもお前の仕事だろ……なんでもいい。ペルーシャの従者という事にでもしておけ』
学人が不用意に森の中に入るとはあまり思えない。……が、念の為だ。守護者に消し炭にされてしまってからでは遅い。
それだけ伝えると、ジェイクは踵を返そうとした。
『待て、ジェイク』
扉に手を掛けたところで呼び止められる。
『何があったのだ? 我らには知る権利がある』
ジェイクは振り返りもせずに答えを返した。
『見たまんまだよ』
…………。
『ガクト様、これが船でございますわ!』
ブルータスの町に到着するやいなや、学人がソラネに引っ張られて連れて来られたのは港だった。砂浜に組まれた石畳から伸びる幅広い桟橋と、ちょっとした小屋があるだけの簡素なものだ。これを港と呼ぶには少し寂しい気がした。
船員とおぼしき者達が、何やら船に荷物を積み込んでいる。交易品か何かだろうか。乗船客の姿が見えないところを見ると、出航まではまだまだ時間があるらしい。
全体的に真っ白な建物が多く、色とりどりの屋根が鮮やかな美しい町だ。
この町には斡旋所が無いため、都市ではないそうだ。大きさだけ見れば、国境都市と同じくらいの規模であるにもかかわらず。
学人は船といっても、左右にオールがずらっと並ぶ、人力で動く細長い船をイメージしていた。造船技術がほとんど無い世界の、たった一隻の船なのだ。全く期待していなかった。
今、学人の目の前で波に揺られているのは帆船だ。
全長は二十五メートルほどだろうか。ずんぐりとした船体で、マストが一本立っている。今は畳まれているのでよくわからないが、おそらく四角形の横帆が張られているのだろう。
船首からは碇が下ろされていて、舵は見当たらない。船尾両舷にはオールが一本ずつ吊るされていた。
迫力のある木造帆船に圧され、息を呑む。
『――船体はオーキスという木材を重ねた、鎧張りという構造になっていまして』
ソラネが長々と船の説明をしてくれているが、頭の中に入って来ない。学人は予想に反した立派な帆船に、ただただ目を奪われていた。
ちなみに、アシュレー達の姿は無い。船を前にすると、ソラネがマシンガントークになるのを知っていて逃げたのだ。
『ソラネさんは船が好きなの?』
止まる事無く喋り続けるソラネに、思った事を訊いてみる。
『もちろんですわ! 森の民森林族からして見ると、奇跡の乗り物ですもの。船を前にして心躍らない森林族など存在しませんわ!』
それは言い過ぎだろう。ヒイロナならともかく、ジェイクが船を見てはしゃぐ姿など想像もできない。
『僕たちの世界にはさ、金属でできた船があったんだ』
『金属で、ですか? ありえませんわ。金属などすぐに沈んでしまうに決まっています』
ソラネが信じられないといった顔をした。当たり前と言えば当たり前だ。
どこかで船の図鑑でも手に入る事があれば、ソラネにプレゼントするのもいいだろう。きっと喜んでくれるに違いない。
海。国境都市付近でも遠目に見えてはいたが、この世界の海を間近でゆっくりと見るのは初めてだ。
潮の香りが風に運ばれてきて、鼻の奥いっぱいに広がる。太陽の光が水面を反射して、穏やかな波をきらきらと輝かせていた。
変わらない。
地球の海と全く変わらないのだ。違うと言えばその透明度と、海の中を見た事の無い魚が泳いでいるところくらいだろうか。
母なる海は、どの世界でも一緒なのだろう。眺めていると、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる。
船とは逆方向にある水平線に目を向けると、僅かに弧を描いている事がわかる。つまり、この世界は球体だ。
これはこの世界が、宇宙に浮かぶ惑星のひとつである事を意味していた。
ひょっとしたら大きな象が大地を支える、平面世界なのでは、とも思っていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
『ソラネさん、あれは?』
学人が指をさす先にあるのは島だ。方角的には北西。小さな島がいくつか見える。
反対の南側。停泊している船の向こうにもひとつ。こちらは大きい。
『あれは竪琴の島ですわ。南側にあるのが竪琴の島で、北側は行けないので、多分無人島ですわ』
行けない。
その言葉に学人は引っかかりを覚えた。あまり距離がある様には見えない。
むしろ北の海岸からであれば、竪琴の島に行くよりも圧倒的に近い。
『行けないって……なんで?』
『湾になっていて、外海から海水が流れ込んでいるのです。潮の流れが速すぎて船で向かう事ができませんの。この海で穏やかなのは、大陸と竪琴の島に挟まれた部分だけですわ』
言って、ブルータス周辺の地図を見せてくれる。世界地図よりも詳細な地図だ。
ソラネの言う通り縦長の湾が、大陸に食い込む形になっている。
湾の中央付近には細長い竪琴の島。湾口には小さな島々が、まるで蓋をするかのように並んでいた。
『ここからでは見えませんけど、一年ほど前に北を迂回して向こう側の陸に行こう、という試みがされましたの』
たしかに地図には、湾を形成している反対側の陸地が途中まで描かれている。という事は、渡る事に成功したのだろう。
半島が南に向かって伸びている。
『山脈に阻まれて、上陸できずに帰って来たのですけどね』
半島は険しい山脈で埋まっていたそうだ。
たぶん、この半島の先には、ヒイロナやドナルドの言う国がある。
ミクシードはそこから来たのだろうか。
話を聞くと、また新たな疑問が浮上してきた。
『王国の南に国があるらしいって聞いたんだけど、なんでわかるの?』
『見えますの。竪琴の島から。街が』
実際に竪琴の島から見てみない事には何とも言えないが、何か方法があるはずだ。
誰にも知られていない、この海を渡る方法が。
学人には、海路に可能性が見えた気がした。




