51.生命の樹
――交易都市ケルヘン。
その都市はアイゼル王国中心部、アイゼルハイム領に位置し、色々な地方から商人の集まる都市だ。
街の一画に市場がある都市とは違い、街全体が市場になっていて、それが交易都市と呼ばれる一番の所以になっている。
色んな商人が多く集まるのだから、当然物資の流通量は世界一だ。この都市で手に入らない物は無いとまで言われている。
その利便性から、この都市に拠点を置く騎士団も少なくなかった。
その日は雷鳴が轟き、バケツをひっくり返した様な雨が叩きつける嵐の夜だった。
『ふざけるな! どういうつもりだ!』
一軒の小さな建物から、男の怒鳴る声が響いた。嵐の中でも遠くまで届きそうな、怒りに満ちた大声だ。
声の主は雨でずぶ濡れになった森林族だった。
怒鳴ると同時に叩いたテーブルが大きく震え、置いてあったランタンの灯が部屋の中をチラつかせる。
テーブルの奥に座る赤髪の男は怒鳴る声にも動じる事無く、至って冷静だった。
『言った通りだ。ルーレンシアの助力を得て、ヒルデンノースを攻める』
先代の時代、ルーレンシアの領主だった騎士団だが、攻城戦で城は陥落、先代姫のサイモリルは戦死。ルーレンシアの奪還は跡を継いだ彼らの姫、アリスティアの悲願だった。
それをこの赤髪の男、“龍の影”王子ヴォルタリスは簡単に手放してしまった。
『アリスは後継を選ばなかった。正当な後継者がいない。それはつまりだ』
ヴォルタリスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
『もう龍の血族は終わったんだよ、ジェイク』
噛んで含めるように言い聞かせる。
しかし、ずぶ濡れの森林族、ジェイクは聞く耳を持とうとはしなかった。
『で、宿敵に媚びて他所を攻めるだ? テメー、本気か? 誰がそんな話、納得する!』
ジェイクがヴォルタリスの胸倉を掴み上げ、怒りに唇を噛んで再び怒鳴り付ける。ヴォルタリスはジェイクから目を逸らさず、されるがままになっていた。
傍らでずっと黙っていたユージーンが横やりを入れた。
『全員納得している。お前以外はな。もう居ない人間の念に囚われるな』
その言葉に、ジェイクはさらに激昂を見せるかと思われたが、線が切れたように大人しくなった。
静かに踵を返し、ゆっくりと扉に向かう。
扉の前で立ち止まり、固く結ばれた唇から言葉が漏れた。
『まだ俺がいる。……終わってなんかいない。俺が終わらせない』
『俺が、姫の意志を継ぐ』
王国暦681年。
この日、二人の男が袂を分かった。
………………。
ジェイクは椅子に身体を預け、カタンカタンと音を鳴らしている。
詰め所の狭い一室に響くその音は、部屋を固める兵達に苛立ちを覚えさせる。
ジェイクとヒイロナがテーブルを挟んだ先にある物は、誰も座っていない椅子だ。ユージーンは少し待てと言い残したっきり姿を見せず、もう数刻になろうかとしていた。
『おい、もう行っていいか? この後、デートの約束なんだよ。彼女の機嫌損ねてフラれでもしたら、お前が責任取って俺とデートしてくれんのか?』
不機嫌さを全面に出して、ジェイクが兵に鋭い視線を向ける。
しかし、兵は反応を示すどころか、ジェイクと目を合わせようとすらしなかった。額には汗が浮かんでいて、どこか恐れをなしているかのようにも見える。
木の扉が軋みと共に開き、ユージーンが戻ってきた。
『あまりいじめてやるな。お前の可愛い後輩達だ』
『俺は“影”に入った覚えはねえよ』
ジェイクにそう言葉をかけながら、二人の対面に腰を下ろす。
『待たせてしまって悪かったな。迷宮の主の出現周期でバタついているんだ』
先程のジェイクの問いに対する答えだ。龍の影最強の騎士が田舎の都市にいる理由、それは迷宮の主討伐のためだ。
主の力は強大だが、その分見返りも大きい。主からは貴重な魔法結晶などが採れる事がある。それに自分達の領地の事だ。放っておくわけにもいかない、といった理由もあるだろう。
そして、二人の顔を見据えて、
『お前達も急ぐ身だろう? 一体何をやっているんだ』
知った風な口を利く。
事情はまだ何も話してなんかいない。だが、早く済ませてやるから適当に話を合わせろと、そう受け取ったジェイクが適当に返す。
『俺達の事情を知ってるなら話が早い。もう行かせてもらうぞ。急いでるんでね』
だが、ジェイクはユージーンの態度の意味を読み間違えていた。
彼が言っているのは全くの別件での事だったのだ。
『影に所属する森林族たちもすでに森に帰省している。ノット先生も今頃は到着しているはずだ』
その言葉に、ジェイクは自分の間違いに気付いた。昔のよしみで暴れた件は不問にしてやるからさっさと行け、という事ではなかったらしい。
エルフの森は森林族しか入る事ができない。他種族が立ち入ろうものならそれがどんな理由であれ、問答無用で守護者や森林族の戦士たちによって排除される。
つまり、ヒルデンノースの領主以外に他種族が森に入るのを許されるという事は、よほどの非常事態という事になる。
ジェイクはノットと一度しか顔を合わせた事が無いが、記憶が正しければ人間族だったはずだ。
『待て、どういう事だ? あいつは人間族だろう?』
適当に流すわけにもいかず、ジェイクがテーブルに身を乗り出す。ノットは人間族。それを聞いたヒイロナも不安気な表情を浮かべた。
ジェイクの反応に少し面食らったユージーンは、
『お前……何も知らないのか?』
神妙な顔で確認を取る。
亜空間から帰って来たら地上では二年が経過していた。リスモアにはそんな話、届いてはいなかった。
国境都市では学人が誘拐されて、王国内の情報を集めている暇など無かった。何も知るわけがない。
ジェイクが部屋の中で警戒をする兵達を外させろと、ユージーンに目で訴える。
『お前達、少し席を外してくれ』
ジェイクの視線の意味を汲み取ったユージーンが、兵達に命令を下す。
全員が出て行き、扉の閉まる音が聞こえたところでジェイクが口を開く。
『俺達は女神大戦後、人里離れた土地にいた。王国には二日前に帰って来たばっかりだ』
ユージーンは少し目を閉じた後、苦笑いを浮かべた。
『お前……適当に話を合わせて済ませるつもりだったな?』
今度はやれやれといった顔をして、静かな口調で“それ”を告げた。
『生命の樹が枯れ始めている。原因を探る為にヴォルタリスがノット先生を呼んだ』
森林族は森と生命の樹をずっと護ってきた種族だ。その護るべき対象が枯れ始めている。森林族なら誰もが愕然とする話だ。
ヒイロナは突然の告白に声も出せずにいた。この話を聞いた森林族はみな、同じ反応を見せてきた。
『そら、領主としても無視はできないわな。自分の領地での問題だ』
ジェイクは眉ひとつ動かさなかった。ジータの件、学人の件、そして生命の樹ときた。次から次にわけがわからなくなる、本来の目的を見失いそうで面倒だ。そう思った。
その程度だった。
『ジェイク……』
ヒイロナが縋るような目でジェイクを見る。
エルフの森。ヒイロナとシノは成人して森を出てからも、時間を見つけては帰っていたが、ジェイクが帰ったのはたったの一度きりだ。
生命の樹が枯れようが、たとえ森が火災で丸焼けになろうが一人だったら、今のジェイクならおそらく帰らなかっただろう。以前ならまだしも、今となってはジェイクにとってどうでもいい事だった。
だが、今はヒイロナが一緒で、どういうわけか学人も森に向かってしまった。帰らざる得ない。
『ユージーン、悪いがすぐに行かせてもらう。街ん中で暴れた罰則はツケにしといてくれ』
『……酒場と一緒にするな。もういい、怪我人も出ていない事だし適当に誤魔化しておいてやる。それに、お前にゴネられたらそれはそれで面倒だ』
ジェイクとヒイロナは静かに部屋を出て行った。
目的地はヒルデンノース領北西部、エルフの森だ。




