48.出会い
――月明かりも無い暗い森の静寂を、落ち葉を蹴る音が駆け抜ける。
逃げる様に走る人影は、時折後ろを振り返るが、後方には何者の姿も無い。
『あっ!』
地面から浮かび上がった木の根に足を取られて転んだ。
長い時間を走っていたのか、汗にまみれて大きく呼吸を乱している。
一寸先も見えない真っ暗闇だ。目が闇に慣れたとはいえ、視界はかなり悪い。当然何度も転んだのだろう。服は泥だらけで、膝も真っ赤に腫れて血が滲んでいた。
悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、両手をついて立ち上がろうとする。
限界などとうに超えている。ガクガクと震える足を引きずって、それでも前に進む。
また後ろを振り返るが、やはり何かがいる気配など無い。だが、人影は後ろを気にしながら歩いて行く。
後ろを気にし過ぎるあまり、前方の警戒を怠ってしまっていた。行く先にいる大きな熊に気が付かなかった。
三メートルはあろうかという巨大な熊が、咆哮を上げて人影に立ちはだかる。
『どいてっ!』
怒声をぶつけて手をかざす。
爆音が轟き、真っ暗な森が一瞬、昼間のような明るさを取り戻した。
閃光に浮かび上がった人影は、まだ年端もいかないような少女だった。
周囲に物音がしない事を確認すると、少女は肉塊と化した熊のそばにへたり込んだ。
もう走れない。
もう歩けない。
周囲は落ち葉が風に吹かれて、カサカサと乾いた音を立てているだけだ。少女は少し警戒を続けた後、安堵したかのように小さく息を吐いた。
ホッとしたのも束の間、高くそびえる木の上で、枝を蹴ったような音がした。
その音に、火をつけられた様に飛び上がる。どうやら追跡者に追い付かれてしまったようだ。
『こんな所で……!』
少女の消えてしまいそうな声には、悔しさと絶望が入り混じっている。彼女は、自分が追跡者に勝てない事を知っているのだ。
バサバサと枝を鳴らして何度か木の上を跳躍し、追跡者が動きを止めた。
少女が照明魔法を作り出すと、その姿が露わになった。
カメレオンだ。
体長一メートルほどのカメレオンが、体から飛び出したギョロっとした眼で少女を見つめている。
少女の腕が半円を描いて振るわれると、鋭く唸る音を伴った風の刃が、空中を滑るようにして飛んでいく。
だが、その刃は溶けるように崩れ、カメレオンに到達する前にそよ風になってしまった。
このカメレオンは魔力喰らいと呼ばれる。
魔力を分解してしまう特性を持っていて、その名の通り魔力を喰らっているかのように見える。
自分の意思とは関係なく、近付く魔力を全て分解してしまうので、たとえ不意を突こうとも魔法が到達する事は絶対に無い。
さらに爬虫類とは思えぬ速度で跳躍し、長い舌からは消化液が分泌されている。
マナイーターは生態どころか、その存在すら疑わしく思われている希少な魔獣で、日本で言うツチノコのようなものだ。
生きていても、死骸でもどちらでも構わない。その個体には多額の懸賞金がかけられている。
ウィザードである彼女が奇跡的に出会ってしまったのは、不運としか言いようが無い。
恐怖と疲労で震える少女の細い脚は、これ以上体重を支える事ができず、崩れるようにガクンと膝を付く。
諦めを含んだ視線をマナイーターに向け、ボソっと言葉を漏らした。
『やだ……死にたくない……』
涙すら出ない。少女の目に、マナイーターから放たれる何かが映った。
思わず腕を上げて身を守ろうとすると、伸びてきた消化液まみれの舌が絡み付いた。
ジュッという小さな音と共に、腕に灼けつく様な激痛が走る。
『ああああああッ!』
残ったもう片方の手で舌を掴む。当然、その手にも激痛が走った。
掴んだ手で魔法を放とうとするが、魔力が乱れて操作する事ができない。
(無理だ……)
少女はとうとう、生きる事を完全に諦めてしまった。目尻からようやく一筋の涙が頬を伝う。
照明魔法もいつの間にか分解されていて、辺りには暗闇が戻っていた。
誰かが見ているわけでもないが、醜態を晒すような、無様な最期を迎えたくはない。
そう思い、静かに目を閉じた。
閉じた目に浮かんで来るのは、幼くして亡くした両親の顔ではない。そもそも顔など記憶に残ってはいない。
(ごめんね……マコちゃん……)
彼女の憧れた、姫の顔だった。
突然、腕に絡み付く舌の感触が無くなり、マナイーターの気配も感じなくなった。
自分は死んだのだろうか。
だが、相変わらず怪我をした腕、膝、掌からは鈍い痛みが伝わって来る。
もし女神様に会う事ができたら、文句を言ってやろう。死んだ後も怪我の痛みが残るだなんて聞いていない。
そんな事を考えていた。
『なんだぁ、あいつは?』
落ち葉を踏みしめる音と、男の声が背中に聞こえてきた。
マナイーターの気配を感じなくなったのは自分が死んだからではなく、誰かが追い払ってくれたからのようだ。
(こんな夜に、こんな森の深くに……人?)
目を開き、消された照明魔法を作り直して振り返ると、そこに立っていたのは弓を持った長い耳の森林族の男だった。
髪はボサボサ、髭も伸びっぱなし、生気のあまり感じられない虚ろな目をしていて、森林族独特の気高い雰囲気など微塵も無い。
窮地を救ってくれた白馬に乗った王子様、と言うにはあまりにもかけ離れた風貌だった。
森林族は少女を一瞥すると、気怠そうに口を開いた。
『テメー、こんな所で何してる? さては肝試しか?』
死にかけていた所を助けておいて、この言い草だ。
男はそれだけ言うと、立ち去ろうとしてしまった。
少女は言葉を見つける事ができなかった。
彼はおそらく世捨て人だ。服もひどく汚れていて、少し臭う。実際のところはわからないが、死に場所を探していて、それでこんな森の深くをさまよっている。少なくとも少女の目にはそう見えた。
とにかく助けてもらったお礼を言おうと、精一杯声を出す。
『あのっ……!』
ありがとうございました。
そう言うつもりだった。
そう言おうとした。
『あ?』
呼び止められた男が足を止めて、首だけを少女に振り向かせる。
なぜそんな事を言ったのかはわからない。
少女が口にした言葉は、頭の中に浮かんでいたものとは全く違うものだった。
『結婚してくださいっ!』
王国暦681年、つまり今から六年前。
ジータ十一歳、ジェイク二十一歳。
これが二人の出会いだった。
…………。
『でね、そのあと、彼どうしたと思う?』
普段は感情をあまり表に出さないジータが、満面の笑顔で馴れ初めを話している。
まだ日が傾き始めたばかりだが、既に取った宿のベッドに潜り込んでいた。
今日は良い事があった。
ジェイコブと名乗る商人から、中継都市ランダルでジェイクを見たという情報が入ったのだ。
見かけた時期と自分が立ち寄った時期が重なる。どうやら入れ違いになってしまったらしい。
もうランダルからはだいぶ離れてしまったが、一晩明かしたら大急ぎで引き返すつもりだ。
『えーと、うん……突っ込みたい所はいっぱいあるんだけど……まあいいや、それで?』
ミクシードは嫌な顔ひとつせず、にこにことジータの話を聞く。
もうそれなりに長く二人きりで旅をしているが、こんなに嬉しそうなジータを見るのは初めてだ。
ジータの言葉が途切れた。まさか喋りながら眠ってしまったのだろうか。
違った。
ジータは天井に視線を泳がせながら、少しよだれを垂らして呆けている。興奮のあまり記憶の世界にトリップしてしまったようだ。
多分自分のいい様に改ざんされた世界に行っているのだろう。にやにやとしていて、さすがのミクシードもちょっと引いた。
『ジータ! 帰って来て!』
ミクシードが呼ぶ声にはっと我に返った。
それから話は進み、今度はジータが健気にもジェイクに付き従う話へと移っていく。
ジータは付き従っていたと言い張るが、ミクシードの耳にはどうしてもそうは聞こえなかった。
口には出さなかったが、こう思った。
それって、ストーカーって言うんじゃないのかなぁ。




