44.ウェイランズ地方
アイゼル王国、ウェイランズ地方。
ここはヒルデンノース領の最東端に位置する、水の豊かな地域だ。
まるでフライパンの様に窪んだ地形で、平均水深四十センチほどの広大な湿原地帯が広がっている。
湿原の地下には迷宮が迷路のように広がっていて、水に関連する魔法結晶が多く出土する。
これまでの土の道は全て橋の木道へと姿を変える。あまり重量のある馬車は通る事ができず、危険な魔獣も出没する為、行商人が立ち入る事はほとんどない。おまけに道が曲がりくねって入り組んでいるので、観光や迷宮目当ての旅人でなければまず敬遠される道だ。
湿原は王国を囲む山脈に沿って南に伸びており、直線距離だけを見れば最短で東のファラン領へ抜ける事ができる。
ペルーシャと学人は、そんなウェイランズ地方へと差し掛かっていた。
『えーと、ペルーシャ?』
『ニャんや?』
湿原を見た学人が顔を引きつらせる。
本来であれば初めて見る巨大な湿原に感動したいところなのだが、丁度良く視界に入った魔獣を見て、それどころではない。
『本当にここを通るの? 考えなおさない? できたら国境まで戻るのが嬉しいんだけど』
『あかんニャ』
湿原の次に目に飛び込んできたのはワニだ。
二足歩行で、トライデントの様な木製の三つ叉の槍を手に持った、ワニの魔獣だ。
学人の視線の先に気付き、簡単に説明をする。
『ああ、あれニャ、ウェイランズワニって言うてニャ、こっちからちょっかい出せへんかったら大人しい魔獣やねん』
魔獣というより、ワニの獣人族と言われた方がしっくり来るように学人には思えた。このあたりの線引きもいまいちよくわからない。
完全に腰の引けた学人をよそに、二人を乗せたモンローが静かに木道を進み始める。
進行方向を学人が身を乗り出して覗くと、ペルーシャの背中越しに真っ直ぐに伸びる木道が見えた。行く先には水面から飛び出した背の高い水草が、まるで林の様に茂っていて、それを避けるかのように道が左右二手に分かれている。
右に伸びる道に沿って視線を走らせる。……行き止まりだ。しかし、道の終わりに何かが浮いている事に気が付いた。
『ペルーシャ、あれは何?』
どう見てもカヌーなのだが、指で示して尋ねる。
『舟やニャ、この辺に住んでる人のやろ』
『じゃあ、あれは……?』
大して興味はないが、目に付く物をひとつひとつ、しつこく訊いていく。
……。
『あ、ちょっと止めて!』
『ニャんやねん、もー!』
『僕は環境研究者なんだ。ちょっとじっくり水底を調べたいんだけど……いいかな?』
適当な嘘をでっち上げる。
見ての通り水に囲まれた場所だ。そんな素振りは見せないが、もしかすると、ペルーシャは水が苦手なのではないかと考え付いた。三度の逃走劇では弱点らしい弱点を見つける事はできなかったが、試してみる価値はあるだろう。
ただ逃げるのではなく、ペルーシャを捕縛しなければ、学人の代わりにまた他の誰かが誘拐されてしまう。
『はー……ほな、ちょっとだけやで』
あれこれと質問攻めにされて、少しイライラした様子のペルーシャが手綱を引っ張り、モンローに止まるよう指示を出した。
普段なら即答であかんニャ、と言うところなのだが、
『見たらもう大人しゅうしてや』
これで大人しくしてくれるなら、としぶしぶ許可をする。
学人はモンローから飛び降り、靴も脱がずに水に入った。膝のあたりまで水に浸かり、靴底からはぬるっとした感触が伝わってくる。
水底には何がいるかわからない。裸足で入るのはやめておいた方がいいだろう。
『普通のワニとか、ヘタしたら肉食の魚もおるから気いつけや』
『マジっすか』
濁った水をすくい、底の泥もすくい上げてふんふんと頷く。特に変わったところのない、普通の泥だ。水もかなり濁ってはいるが、何か小魚が泳いでいるのがわかる。
水草をちぎって見てみる。蓮の葉の様な水草で、こちらも特に変わった様子はない。
最後に木道の脚を調べる振りをして、大げさに声を上げた。
『これはッ!』
ペルーシャは興味無さ気に学人の様子を見ている。
『ペルーシャ、ロープみたいな物持ってない?』
鞄の中にロープが入っているのは知っていた。干し肉を出そうと中をまさぐっていた時に、チラッと見えていたのだ。
『はいはいはいはい、もー!』
少し不機嫌な顔をしたペルーシャが、鞄からロープを取り出して学人に手を伸ばす。
(……今だ!)
ロープを受け取ると同時に、反対側の手で手首を掴んで、全体重を後ろにかけて水の中に引き摺り込んだ。
『ニャ?!』
急に引っ張られたペルーシャは踏ん張る事もできずにバランスを崩し、勢い良く頭から突っ込んで来た。
ここまでは学人の思惑通りだ。あとはパニックになったペルーシャを縛りあげるだけだ。
しかし、ペルーシャは落ち着いた様子で、何も言わずにゆっくりと立ち上がった。水を滴らせながら顔を伏せ、握り拳を作って肩が少し震えている。
『ガクト……』
パニックになると踏んでいたのに、落ち着いているペルーシャを見て戸惑う学人。ペルーシャがゆっくりと顔を上げた。身に纏う空気が少し重い。
『ひゃ、ひゃい!』
怒りに満ちた低い声と視線に、思わず学人の声が裏返る。
ペルーシャはにっこりと笑みを浮かべ、学人の肩に手を乗せて、
『自分、いっぺん死ねやボケエェェッ!』
学人の耳に怒鳴り声が響いた瞬間、強い衝撃に呼吸が止まり、浮遊感と共に天地が逆転した。
蹴りだ。ペルーシャの蹴りが学人のみぞおちにめり込んでいた。ペルーシャの蹴りをまともに受けた学人は、水しぶきを上げながら、まるで蹴られた空き缶の様に吹っ飛んで行く。
学人の思惑は外れた。ペルーシャは猫だが、水は全然平気らしい。
水しぶきを上げて水面を跳ねていた学人の姿が、突然消えてしまった。
姿の消えたあたりからは、ゆらゆらと静かに波紋が広がっている。
『ニャッ?! しもた、入り口か!』
ペルーシャが大きく足を上げて駆け寄るが、そこに学人の姿は無い。
水の中には地下に広がる迷宮の入口が不規則に出現し、何かを飲み込むと口を閉じてしまう。学人は運悪く、迷宮の入口に飲み込まれてしまったようだ。
…………。
『げほっ! げほっ!』
学人が水を飲んだ上に止まった呼吸を整え、辺りを見回す。
『あれ?』
ひんやりと冷たい空気が肌に触れ、太陽の光も届いていない。少なくとも、さっきまでいた場所ではない事は確かだ。
状況を飲み込めず、呆然とした顔で立ち上がる。どこか洞窟のようだが暗闇ではなく、そこらじゅうに生えたバスケットボールくらいの大きさの傘を持つキノコが、ぼんやりと青白く景色を浮かび上がらせている。
狭い通路ではなくちょっとした部屋になっていて、天井からは少し透けた氷の様な鍾乳石が、何本も垂れ下がっている。キノコとは別に、鍾乳石もぼんやりと光っている。
床には石灰質の様な物が天井から滴る水で固まったのか、たけのこみたいな石筍がいくつも生えていた。見た感じ、鍾乳洞のイメージを受ける。
『ここは……どこ……?』
ついでに、わたしは誰、とでも言いたい気分だ。
キノコは二種類生えていて、茎の細いものと太いもの。どちらもぼんやり光っている。
学人は側に生えていた、片手で掴めるくらいの茎の細いキノコを引き抜いてみた。なんとか照明代わりになりそうだ。前後に道があるが、どちらが出口に繋がっているのか。呼吸ができるという事は、出口の無い密室というわけでもないだろう。
途方に暮れていると、洞窟の中を照らす光が僅かに揺れた。キノコが揺れた様だ。
(おかしいな……風が吹いてるわけでもないのに)
見ると、太い茎のキノコが傘を揺らしていた。不思議に思って近付いてみると、キノコがサササっと素早く移動し始めた。
『え?!』
くるっと回転したキノコの茎には黒くて丸い目と、笑っているかのような裂けた口が付いている。
魔獣だ。
根っこの部分には短い足が付いていて、傘を上下に揺らしながら歩いていた。学人に敵意は無い様子で、気に入った場所を見つけたのか、しばらく歩き回った後また動かなくなってしまった。
動きを止めたキノコを見て、肩を撫で下ろす。
ここは“向こう”の世界だ。今までのように機転を利かせてなんとかできる自信はない。
ともあれ、学人の初めての迷宮探索が幕を上げた。




