41.ただ黙って殺されるのはごめんだ
やはり蜘蛛は死んでいないらしい。
静寂の闇の奥から、もがく音がまだ聞こえる。
(おかしいな……)
店内にいるのは、あの蜘蛛一匹だけ。
そこまで足が速いわけでもない蜘蛛が、既に糸を張り巡らせているのにもかかわらず、他に魔獣の姿を見かけない。
もっと機動力のある魔獣など、いくらでもいるだろうに。
(あの蜘蛛は一体どこから来たんだろうか)
そう、まるで最初からこの店内に居たかのようだ。もがく音を聞き、学人がそんな疑問を抱いた。
だが今優先するべきは、店内からの脱出だ。浮かんできたクエスチョンマークを意識の底へと沈める。
直進するか、エスカレーターを登って二階へ戻るか。
トイレを案内するマークのある、通路に光を向ける。トイレに繋がるだけの通路としてはやけに幅が広い。
確認してみると壁に男性、女性用と並んで入口が口を空けている。通路はそこで終わりではなく、まだ奥へと続いていた。
倒れている看板の様な物に視線を落とすと、何と書かれているかまでは判別できないが、赤い文字が書かれている。
『ガクト、ヤバい』
もがく音がしなくなり、代わりにまた、カタカタカタという音がこちらに近付いて来ている。
蜘蛛がワックス地獄から脱け出してしまったらしい。
最悪、トイレにでも逃げ込めばいい。狭い入口のトイレには入って来れないだろう。
そう考えた学人は通路を行く事に決めた。フロアとは違い死体も転がっていないので全力で走る。
トイレを横目に通路を走り抜けると、何も置かれていない、少し広い空間に出た。
あるのは幅のある階段、幅のあるエレベーター、そして幅のある鉄の扉だ。
『来た来た来た来た来た来た来た来た!』
蜘蛛が追い掛けて通路に入って来たらしく、ペルーシャが慌てた声を出す。
迷う事なく、学人はドアノブに手を掛けた。
カチャリと何の抵抗もなく開いた扉の先はバックヤードだ。
『ペルーシャ、こっちだ!』
怒り心頭なのか、思いの外早く迫って来る蜘蛛のせいで扉を閉める余裕は無い。
殺風景に変わった通路を、とにかく走る。
走りながら通路の脇に置かれている、搬入出用の背が高いカゴ台車を掴み、少し真ん中へずらしつつ進んで行く。
蜘蛛が道を塞いだカゴ台車に勢い良く激突し、大きな音が背後から学人達を追い抜いていった。
どうやら利口だがマヌケらしい。
通路の終着点にある両開きの扉を開けると、空間が広がってエンジン音が耳に入った。
プラットホームになった搬入口だ。
丁度搬入する所だったのか、それとも終わった所だったのかはわからない。大きなコンテナを連結させたトラックが、エンジンの掛かったまま尻を向けてホームに着けられていた。
学人が一度振り返った後コンテナの上を指差し、ペルーシャに声をかけた。
『ペルーシャ、あの上に乗って蜘蛛の注意を引き付けて! できる?』
言いながら、扉の下に黒い三角のストッパーを挟み込んでドアを開放する。
『ニャにする気や?!』
『いいから僕を信じて!』
目的の見えない言葉にペルーシャが質問するが、必死の表情で怒鳴る学人に圧されて素直に従った。
学人が運転席に乗り込もうとドアを開けると、そこには作業着姿の死体が座っていた。
『すみません、どいて下さい!』
舌打ちをして、思わず大陸の言葉でそう言い放ち、死体の腕を掴み体重をかけて引き摺り降ろした。
なりふり構ってなんかいられない。
引っ張られた死体は、成人した男性とは思えぬ軽さで、飛んで行くようにして転がる。
先に野菜ジュースを放り込み、続いて運転席に乗り込んだ学人はブレーキとクラッチを踏み込み、ギアをセカンドに入れてトラックを発進させた。
エンストしてしまわないよう、慎重に少し進んだらまたクラッチとブレーキを踏み込み、今度はバックギアを入れる。
警告を促す、愛想のない女性の声でアナウンスが流れ始め、助手席と運転席の間に設置されたモニターには、背後の様子が映し出された。
学人がモニターを凝視していると、画面の上から蜘蛛が姿を現した。
ペルーシャに気を引かれて、トラックとホームの段差の間にすっぽりと収まる。
(今だッ!)
クラッチを少し浮かせてアクセルを沈めていく。
少し動き始めたらクラッチから足を離して、力の限りアクセルを踏み込んだ。
『ぶっつぶれろおおおおおおッッ!』
アドレナリンが過剰に分泌されているのか、普段の大人しい学人は見る影もない。
トラックと段差に挟まれた蜘蛛が、ミシミシと悲鳴のような音を立て始めた。
対照的に腹部にある、無数の顔からは歓喜とも取れる悲鳴が上がる。
重いエンジンの唸り声と共に、トラックが少しずつ後方に沈んで行き、とうとうパキンという音を響かせて蜘蛛は押し潰された。
脚をヒクつかせて蜘蛛が動かなくなったのを確認し、そのままエンジンを切って、大きく息を吐いた。
治まらない動悸、思い出したかのように襲ってくる頭痛。
アルコールに水分を奪われていて、喉もカラカラだ。
助手席に転がる、野菜ジュースに手を伸ばす。今すぐ飲み干したいが、まだ口を開けるわけにはいかない。
学人はすぐに動こうとする気にもなれず、ハンドルに身を委ね、突っ伏していた。
コンコンと、ペルーシャがドアをノックするので開けてやる。
『すごいニャー、これもガクトの言う乗り物か?』
返事をするのも億劫で、ペルーシャを一瞥した後、また元の体勢に戻る。
水も持ってくればよかったと後悔する。取りに戻れば済む話だが、できれば戻りたくはない。
学人がぐったりしていると、ピィーッ! というペルーシャの指笛が鳴り、程なく恐竜が姿を見せた。
鞍とハミを身に付けていて、鞄の様な物も下げている。
『モンロー! 無事やったか!』
ペルーシャが小走りで駆け寄ると、恐竜も嬉しそうに鳴き声を上げる。
『その子は……?』
『モンローや! マリリンモンロー!』
その恐竜が何なのか聞くと、名前を教えてくれた。
名前を聞いた学人が苦笑いをする。
(小屋で言ってたモンローって、恐竜の事か)
ペルーシャが鞄の中をまさぐり、革でできた水筒とコップを取り出すと、学人に持って来た。
『だいじょーぶ? はい、水や』
やけに気が利く。
笑顔のペルーシャを見ていると、どうしても悪い人間には見えない。これが吊り橋効果というものなのか、何か友情さえ感じさせた。
学人が礼を言い水を飲み干した後も、ペルーシャはずっとニコニコしたままだ。
『どうしたの?』
少し不気味に思った学人が尋ねると、とんでもない返事が返って来た。
『いや、そう何べんも同じ手にかかるんやニャーって思て』
ペルーシャが言い終わるのが先か後か、学人の視界がぐにゃりと歪んだ。
なるほど、と学人は理解した。
街で飲まされたのも、今飲んだのも、睡眠薬入りの水だ。
『ほな行こか』
ペルーシャは笑みを浮かべて、眠った学人をモンローに乗せ、闇夜の中に溶けて行った。




