37.誘拐
(頭が痛い……頭の中でベルが鳴り響いてるみたいだ)
不鮮明に意識が浮上する。激しい頭痛で、今にも吐いてしまいそうだった。
(お腹も空いてるけど、今は何も口にする気になれない)
何かを胃の中へ入れれば、五秒もかけずに全て戻す自信がある。
(……最低な気分だ。ここ、どこだ? 宿に帰って来たんだっけ?)
一生懸命に記憶を手繰り寄せる。
(……違う、確か店の脇で吐いてたら、誰かが介抱してくれて……)
『あ、起きた?』
学人の意識が戻ると、目の前には見た事の無い顔が大写しになっていた。
(……あ、そうか、この人が介抱してくれ……て?)
『んー! んんーっ!』
違和感に気付いた。というか違和感しかなかった。
椅子に座って猿ぐつわをされ、手足を縛られている。介抱してくれたにしては斬新な方法だ。
自分がどこにいるのか確認しようと周囲を見渡すと、古びたテーブルに置かれたランタンの灯が、寂しげに荒れた小さな部屋を照らしていた。
かなり埃っぽく、もう何年も人の手が入っていない様子だ。
無駄だとわかっていながらも、とりあえず椅子に縛り付けられている上半身を前後させて、ガタンガタンと音を立てる。
『もー、ニャんやねんうっさいニャぁ!』
女が息を荒くして手を挙げる。
殴られると判断した学人が目を瞑って歯を食いしばると、意外にも女が学人の猿ぐつわを解放した。
『君は誰?! ここはどこ?』
思わずお決まりの台詞を口にすると、女は律儀にも質問に答える。
『アタシは盗賊、ここは廃小屋、自分は戦利品、ていうか自分喋れんねんニャ』
状況が把握できた。
つまり誘拐されたようだ。
女の口調は学人の習った言葉とはイントネーションが違い、やや聞き取りづらい。この世界にも方言という物があるのだろうか。
誘拐された原因を考えてみる。
金目当ての犯行か? 違う。
殺して奪えば済む話だ、わざわざ誘拐する意味がわからない。
恨みでも買ったのか? 多分違う。
この世界に来て一ヶ月そこそこなのに、恨みを買う事をした覚えはない。
そもそも、この都市にはまだ来たばかりだ。
ならジェイクが恨みを買っていた。
有り得る……。
ジェイクは戦場に出ていたようだし、それでなくても買ってそうだ。
もしジェイクと一緒にいる所を見られていたとすれば、腹いせに誘拐されたのだろう。
つまり、ジェイクのせいである可能性が高い。
今度は女をよく観察する。
人間の顔をしているが、猫目猫耳猫尻尾。頬にはヒゲの様なものがピョンピョンと三本ずつ飛び出している。
一見コスプレをしている人間にも見えるが、動いている耳や尻尾、身体に生えた毛を見ると、どうやら獣人族らしい。
吸い込まれそうな猫の瞳に、オレンジ色の流れる様な輝く毛並み。
虎を想起させる黒模様の入った身体は柔らかい曲線を描いていて、とても健康的だ。
両腕には変わった形の、ごつい金属が付いたリストバンドをしていて、腰のベルトにはポーチ、太腿には投げナイフを何本も携えている。
学人の視線の先に気付いたのか、女が訊いてもいない事をペラペラと喋り始めた。
『ん? ニャんや? 獣人族が珍しいん? アタシな、クォーターやねん! 自分の住んでた世界は獣人族とかおらんかったん?』
女の口調から、学人の正体を知っている様子だ。
誘拐されたのには間違いないが、不思議と彼女からは悪意が感じられない。
学人に返事をさせる余地も与えず、次から次へと喋り続ける。
……。
『――でニャ、そいつがアタシに言いよんねん。いや、誰がマリリン・モンローやねんほんま』
数十分、話は続いていた。しかも既に関係の無い話で、彼女の前回の仕事の愚痴になっている。
ドナルドといい、獣人族には五月蝿い奴しかいないのだろうか。
(ていうか今、完全にマリリン・モンローって言ったよな? 言ったよね?!)
心の中でそう思うも、口に出して突っ込む元気はなく、学人はウンザリした顔を隠そうともしない。
『ニャあ、自分ちゃんと聞いてる?!』
『あぁ、うん。聞いてる聞いてる……』
適当に返事をする。
学人の前に椅子を置いて陣取った女が、腕を組み眉間にしわを寄せた。
『えーと、どこまで喋ったっけ……ほらー! もう、わからんくニャったぁ!』
目を瞑って唸る女に、恐る恐る訊いてみる。
『僕を誘拐して何が目的なんですか?』
『んー? ちょっと知り合いに頼まれてニャぁ……自分ら異人を誰でもええから連れて来て、言われてんねん』
ジェイクのせいではなかったらしい。
『で、リスモアに行く途中で、丁度良く自分見つけたっちゅうわけや』
日本人を攫いに、わざわざリスモアまで行く途中だったようだ。
しかしここで疑問が浮上した。
なぜわざわざリスモアまで行く必要があったのか。
『王国には僕たちいないんですか?』
『おらへんよ、おったらわざわざこんな遠くまでけーへんて』
王国に日本人はいない。
全員死んでしまったのか、もしくは日本が出現していないのか。
『依頼人は?』
『魔術図書館の研究者やで。丁重にって言われててんけどニャ、言葉通じひんって聞いてたしついつい、ごめんニャ!』
話を聞いた限りでは敵意は無さそうだが、相手は研究者だ。
異世界から来た人間は恰好の研究対象なのだろう。敵意が無くとも何をされるかわかったものではない。
とりあえず逃げた方が良さそうだ。
『わかった、君に付いて行く。ただ……友達がいるんだ。友達も一緒でいいかな?』
相手の話に乗るふりをしてジェイク達と合流する。
合流さえしてしまえば、この女を撃退するなり逃げるなりできるだろう。
『あかんあかん。自分の連れって器用貧乏やろ? 揉めたらめんどくさいもん』
即答で拒否されてしまった。
学人の心を読み取ったかのようにそのまま喋り続ける。
『嫌ニャん? 逃げれるんやったら逃げてええよ。絶対無理やけど』
女から向けられる視線に冷たい感情が帯びる。捕食者の眼だ。
その鋭い眼光に思わず竦んでしまい、声を発する事ができない。
学人が竦み上がったのを確認すると、女は腰のポーチから茶色い棒を取り出した。
テーブルにトントンとした後、先端を少し潰してから口に咥え火を点ける。
ゆっくりと煙を吐き出してから再び口を開いた。
『まぁ、代わりに他のん捕まえるだけやから別にええけど』
学人が逃げ出せば、その代わりに他の誰かが捕まる事になる。
他人を身代わりにしてまで自分が助かる道を、学人には選べないだろう。逃げ出さない様にと、暗に釘を刺された気持ちになる。
しかし次の瞬間には、学人は別の所に意識を奪われていた。小屋が僅かに軋んだのだ。
家鳴りではない、嫌な感覚が本能を刺激する。
日本に住む人間なら誰でも経験する嫌な予感だ。
(――地震っ!!)
学人がそう思った直後、地鳴りと共に小屋が大きな悲鳴を上げて揺れ始めた。
風雨に晒されて脆くなった小屋は、揺れに耐え切れずに梁が外れて落ちて来る。
(潰れる!)
そう悟った学人が藻掻くと、揺れと相まって椅子ごと倒れてしまった。
すると今までに経験した事の無い浮遊感に襲われた。
揺れは治まるどころか徐々に激しくなっていく。
『逃げるで!』
女がナイフを使って、慌てて学人の拘束を解く。
足をもつれさせながら、転がるように扉へ急いだ。
間一髪、二人が出たと同時に断末魔とも取れる音を立てて、小屋は潰れてしまった。
倒れ込んだまま、荒い呼吸で潰れた小屋を見つめる。動悸が治まらない。
しばらくして揺れが急に止まると背後から驚愕の声があがった。
『ニャんやこれ?!』
女が動揺を隠さずに狼狽えている。
何事かと思い、学人は側にあった車に手を付き、立ち上がった。
(……車?)
学人の目の前にあったのは何の変哲もない車だ。珍しくもない。
ついでに足元は何の変哲もないコンクリートだ。珍しくもない。
ゆっくりと目の前の車から視線を滑らせていく。
月明かりのおかげでうっすらと周囲を確認する事ができた。
車が停まっている。
一台や二台ではなく、ざっと見ただけでも数十台。
奥には入り口の様な物が見え、その上には見覚えのある大手ショッピングセンターのロゴが確認できる。
つまり、ここはショッピングセンターの屋上駐車場だ。
それは今この場所に、日本が出現した瞬間だった。
『自分ニャんかしたな?! ニャにをしたッ!』
困惑を含んだ形相で学人に掴みかかる。
急な出来事に学人も戸惑っているのだ、耳元で怒鳴られ頭に血が上ってしまい、怒鳴り返した。
『落ち着いて、僕じゃない! できたならとっくにやってたっ!』
女はワナワナと学人を睨みつけたまま、ゆっくりと掴んだ手を離す。
異人の存在は知っていても、その経緯までは知らなかったのだろう。
『ごめん……ちょっと、混乱してた……』
大きく息を吸い込んで、なんとか平常心を取り戻したようだ。
吐き出される息と一緒に率直な謝罪の言葉を口にする。
学人も深呼吸し、気持ちを落ち着かせると改めて周囲を見回した。
まずやるべき事は状況の把握だ。




