3.警察署
大通りから離れたせいか、気が付くと辺りは静かになっていた。
割れて段差になったアスファルトを乗り越え、事故を起こして道を塞ぐ車を避けて、歩みを進める。
たまに何か破壊音が聞こえると身を隠す。
ここまで来る途中、何人かの人が倒れていた。全員、地震のものとは到底思えない外傷があり、既に息は無かった。中には食い荒らされた様な人もいて、とてもではないが直視する事ができなかった。
崩れた町並みに転がる死体。
平和なこの日本では、有り得ない光景だった。まるで悪夢が溢れ出てきたかのようだった。
支柱にぶら下がっている案内標識を見ると、風峰の言っていた国道の番号が書かれている。どうやら警察署はもう近いらしい。
怪物と鉢合わせにならないよう慎重に進んでいると、遠くから怒号が微かに聞こえた。例の警察署からだろうか。
また片側一車線の道路とぶつかる。
身を隠しながら様子を確認すると、事故車は無く、アスファルトも少しヒビが入っているだけで、比較的損傷の少ない道路だった。怪物の姿も無い。
横断して少し進むと、先には大きな道路が見えてきた。あれが風峰の言う、広い国道だ。
国道に近付くにつれ、耳に届く怒号がはっきりとしたものになってきた。明らかに争う声だ。
国道に差し掛かり、物陰から頭を出して様子を窺う。国道は乗り捨てられた車でいっぱいだ。死体も多く転がっている。
その中で、怪物の集まる場所があった。建物に雪崩れ込もうとする怪物の群れ。大半はあの緑の怪物だが、それとはまた別の怪物の姿も確認できる。
学人と風峰の目に飛び込んできたのは、警察署に殺到する怪物と、必死に戦う警官隊の姿だった。透明な暴徒鎮圧用の盾で、警察署への侵入を食い止めている。
時折、雄叫びに混じって銃声が鳴る。警官の壁を無理矢理乗り越えて、中に入って来た怪物を仕留めているようだ。
「だめだ……」
学人の漏らす声には絶望の色が濃かった。
まさかあの乱闘の中を掻き分けて中に入れてもらうわけにもいかない。
だいたい、中に入れてもらったところで、いつまで怪物の侵入を防ぐ事ができるのだろうか。派手に拳銃を振り回していないところを見ても、弾丸にあまり余裕が無いのだろう。
今は駐車場の門で踏ん張ってはいるが、集まる怪物の数はまだまだ増えている。突破されるのは時間の問題のように思えた。
「……引き返そう」
学人がそう判断したと同時に、丁度前を横切った怪物と目が合ってしまった。
立派なたてがみを蓄えた、二本脚で歩く狼。人狼だ。
「見つかった! 走って!」
「は、はいっ!」
二人は火をつけられたかの様に、来た道を走り出した。先ほどと同じ様に戦う、という選択肢は無い。
仮に倒したとしても、騒ぎを聞きつけて他の怪物が群がってくるのは目に見えている。逃げるしかない。
幸いな事に今追って来ているのは人狼一匹だけだ。
戦うならなるべく引き付けて、国道から離れた場所でだ。
先を行っていた風峰が片側一車線の道路に飛び出した瞬間、何か白い物が猛スピードで学人の目の前を横切った。
同時に重鈍な音が響き、風峰の姿が消えた。
遅れて耳を突く、大きな衝突音とガラスの砕け散る音。
見ると、白い乗用車がガードレールを破り、自動販売機に突っ込んでいた。離れた場所には、風峰と思われる男が倒れている。
「風峰君っ!」
倒れた風峰に駆け寄った学人は、その姿を一目見ただけでわかった。即死だ。
手足があらぬ方向に曲がり、鼻と口からはゴボゴボという音を鳴らして大量の血が吹き出ている。
風峰は痙攣を起こしながら、光を失った瞳で青い空を見つめていた。
「あ……」
言葉を失う。
道路に飛び出した風峰は、物凄い速度で逃げようとしていた車に撥ねられてしまったのだ。
車の方からも人の声が聞こえてこない。
運転手の安否も確認したかったが無理だ。事故などお構い無しに、人狼が追い掛けて来る。
それにフロントが完全に潰されていて、自動販売機がめり込んでしまっていた。運転手が生きている望みは薄い。後部座席にも人の姿は無い。
「畜生!」
振り返る事無く、そのまま走り出す。
学人の目には、いつの間にか涙が溢れていた。
どうしてこんな事になったのか。
今、自分たちの身に何が起きているのか。
妹は、家族は無事なのか。
全ての事がわからない。自分の理解を超えていた。
どのくらい走ったのだろうか。時間の感覚が無い。町はいつの間にか橙色に染まり始めていた。
迷路の様な路地を出鱈目に走るうちに、人狼は負い掛けて来なくなっていた。上手い具合に撒いたらしい。
日が傾き始めたとはいえずっと走り通しだったので、汗が止まらない。喉もカラカラだ。
(水……水を……)
このままでは脱水症状になりかねない。あと、ひとまず休憩のできる涼しい場所だ。熱中症も怖い。
近くの民家へ足を踏み入れる。どこか日本の香りが残る、築年数の経っている家だ。鍵が掛かっていると思いながらも、とりあえず玄関のドアノブに手を掛けた。
すると、予想に反してドアノブが抵抗無く回り、軽い軋みと共に扉が開いた。
そっと静かに中へ入り、後ろ手に扉を閉める。嗅ぎ慣れない他人の家の香りが鼻腔に広がった。
家の中は静まり返っていて、誰かのいる気配は無い。外から見ると無傷に見えた家だったが、目の前に続く廊下の壁には大きな亀裂が走っていた。
入ってすぐにある階段は無視して、靴を履いたまま恐る恐る廊下を進む。
廊下の奥に見えるのはキッチンだ。
途中に半開きになった引き戸の部屋があった。中を覗くと、倒れたタンスから赤い血と手が伸びていた。この家の住人だろう。
「も、もしもーし……大丈夫ですか?」
小さく声をかけてみても反応は無い。
意を決してその手に触れてみると、既に冷たくなっていて脈も無かった。
打ち所が悪かったのだろう。死んでいる。
学人は死体に手を合わせると、再び廊下を進み始めた。
古い家屋で、キッチンだけが独立した構造になっている。手前の部屋にテーブルが置かれ、奥がキッチンだ。中はやはり地震でめちゃくちゃな状態になっていた。
食器棚が倒れて、壊れたテーブルにのしかかっている。
床一面に広がる食器の残骸を踏み付けながら、冷蔵庫に手を伸ばす。
電気が通っておらず、中は冷えていない。食べ物も保存のきくちょっとした物が入っているだけだ。
ドアポケットにある、お茶が満タンに入った小さめのクーラーポットを取り出し、半分ほど残して一気に流し込む。
救助がいつになるのかわからない。ついでに食べ物も胃の中に入れておく。
落ち着いた学人がその場にへたり込んだ。このまま家の中で息を潜めるのか、もっと安全そうな場所を探すのか。
どちらにするか葛藤していると、ふと、余震が全く無い事に気が付いた。
おかしい、あれだけ大きな地震だったのにもかかわらず、余震が一度も無いのだ。
余震があれば、迷わず家を出て他の場所を探しただろう。余震が無いに越した事は無いのだろうが、この奇妙な静けさが、逆に学人の判断を鈍らせていた。
結局、学人は家に留まる事にした。日が完全に落ちて夜になると、出歩くのは危険だ。
二階に上がり、適当な部屋を見繕って中へ入る。机や本棚で入口を塞いでバリケードを作ると、置かれていたベッドに転がった。疲労が大きい。
学人はいつの間にか、眠りに落ちていた。